不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

連休派平成日記

 平成最後の日だそうだ。元号というものは書類やシステムなど事務作業においては邪魔なものであろうから、そういう場では使わなくてもよいのではないかとは思うが、まぁしかしあったっていいのではないかとも思う。伝統だからと続けるのは愚かな考えだが、伝統を合理主義的に考えてやめる事も愚かである、はっきりとした意思と考えと決断でもってやめるのならば(その考えに理解、納得できるのであれば)俺は賛成してもよいが、いまのところそういう意見は見当たらない。

 元号は権力者が時間を支配するための云々という批判も見られたが、かといって西暦はキリスト教におけるものなので宗教的な数字で、他にも仏教暦、ユダヤ教暦などがあるから世界普遍というわけでもなく、キリスト教徒でもない人が「私は西暦派」などとリベラルぶって言うのは、単なる逆張りだなとしか思えない。

 明治、大正、昭和、平成という時代区分は確かに存在する。それは言うまでもなく振り返ってからのものだ、令和の令は命令の令だと批判する人が多かったが、仮にそうだとして我々が命令でもって和をもってどうのこうのとなるかというと、なるわけがない。決めた人間にどういう考えがあろうと、令和の時代がどういう時代になるかは定まらない。後からわかる。明治、大正、昭和、平成が名付けた通りの時代になっただろうか、平成だけは「平らに成った」時代と言えるかもしれないが、まぁそれも結果論だ。平らな時代という事もそのうち考えていきたい。『サピエンス全史』を持ち出すまでもなく、人間(社会)は虚構の上で成り立っているもので、虚構の中で実が生まれれば、実から新たな虚構が出現する事もある。元号というよりも、時間を名付ける事、時間に名前がある事、そこに何かしらの意味や物語があるのではないかと俺は思う。また皇室という虚構にも。無意味だけど、意味がある、その程度といえばその程度のもの、その程度はどの程度?

 このまま天皇制や皇室について、はたまた時間についてなんぞを考えて書き出せばキリがない、そもそも俺の頭がついていかないし、書き終わる前に平成が終わってしまうのでこの辺でやめておく。ただ、現在は間違いなく過去よりもよい時代にあり、同時に現在は間違いなく未来よりも悪い時代である、そしてそれを忘れた時に世界の歩みは止まる。俺自身は実感が全然ないのだが、言われているように今日一つの時代が終わり、明日新しい時代になる、せめてよりよくしたいとは思っている。よりよくしたいがどういう意味で何をするかは個人によるが。

 そんな俺の平成最後の日は、平成最後の出社をして、平成最後の仕事をして、平成最後のアイドルのコンサート参戦という濃厚な一日であった、疲れた。

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