不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

誕生日おめでとう

 この日記にもたびたび登場している我が姉が、本日誕生日を迎えた。不惑の四十である。大変めでたい。だが信じられない。「え、五十歳? とても見えませんね」という会話をした仕事相手が今年還暦を迎えると聞いて目眩がしたが、それ以上の衝撃である。あの姉が四十。自分が四十になるよりも衝撃を覚える。
 別に振り返る必要もないのだが振り返ってみてしまえば、姉弟関係はずっと良好なものだったと思う。俺は小中学生は勉学に明け暮れ(正確に言えば明け暮れさせられて)、反抗期の高校は俺が田舎の寮に入っていたのでぶつかる事もなく、大学ではお互い個が確立していたの問題はなかった。姉が俺をどう見ていたのかは知らないけど。ブラコン気味だと自覚していると言うが、俺にはようわからん。
 そもそも、俺の基盤は思想としてのプロレスになるのだが、その上に本や映画、音楽といった芸術・文化を教えてくれたのは他ならぬ母と姉であった。母は古典や基礎教養が多かったが、姉は年が近いのもあって最近のものをいろいろと教えてくれた。小沢健二コーネリアスミッシェル・ガン・エレファントOASIS、『BANANA FISH』、吉野朔実村上春樹吉本ばなな江國香織サリンジャー、P・オースター、『トレインスポッティング』、『スモーク』、タランティーノ……枚挙にいとまがない。
 一番仲が深くなったのは、母の病気がキッカケだろう。前にも書いたが当時姉は一応仕事が決まっており、無職だった俺が出会った人(現上司)の丁稚奉公をしながら看病をしていた。そのうちに姉はいろいろあって仕事をやめて、母の病状が思わしくなかったのもあって、二人で看病に専念した。あの時、姉と俺が正社員としてみっちり働いていたら看病はどうなったか、また片方だけでも負担は大きかっただろう。肉体以上に心の負担が大きく、一人だったら耐えられただろうか。いまくらいの年だったら心の整理や対応が可能だったと思うが、あの時はとても無理だったろう。姉がいたから、心の底が抜ける事なく母を見送れたのだ。一年数ヵ月後に母が亡くなったのは本当に残念だったが、様々な要素が重なって二人でしっかり看病できたのはとてもよかった。母亡き後に姉と二人で暮らしたが、あれもしばらく一人では無理だとうすうす感じていたからだろう。姉が恋人(現旦那)と暮らすと言って(俺の徹夜明けの日に)去っていって、二人暮らしは一年弱で終わった。
 その後もわりと近所に住んで、しょっちゅう会って映画に行ったり、メシを喰ったりしていた。お互い結婚して新生活になったり、姉一家が海外転勤になったり、帰国後には子供が生まれたり、少し離れた場所に住んでいたりと、さすがに前ほど会う事はなくなったけれど、それでも二〜三ヵ月に一度くらい会っている。メールもよくする。だから、まぁ仲がいいのだろう。こんな感じでずっと続いていくのかもしれない。
 本当は日記の話題の一つとして触れて、さらりと「おめでとう」と書いて終わらせるつもりだったのだが、書きだしたらいつの間にかこんな長々とした思い出話になってしまった。こんな話を公にしている日記に書いていいものか。しかもここは姉もたまに読んでいるというのに、結構恥ずかしいではないか。だが、いまさら消すのもなんなので、このままにしておきます。こういう機会もめったにあるまいから、いいだろう。ちなみにどうでもいい話だが、面と向かっても「姉」と呼んでいる。
 改めて。姉よ、誕生日おめでとう。なんやかんやと病気しがちなので心配しています。気を付けてください。今後も自由に楽しんでいこう。彼らもそう歌っているし。