不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

午後8時の訪問者/私のドアを叩くのは


 たとえば中盤にある車の助手席から横顔を映し続けた長回し、あるいは終盤のボタンをめぐる病院内の一連の出来事を映した同じく長回し、これらはサスペンスという言葉では足りない暴力の発露であると同時に、それに相反するようなある種の日常性が共存している瞬間で、底知れないものに触れてしまったような気すらした。
 たった一度の無意識だけど明確な拒絶が招いた悲劇から、そのあと患者だろうが出先で「どう?」と出されたものであろうが全て受け入れて最前線を歩き続けるのは、自身のエゴを殺すためであり、また死者の尊厳を取り戻すためである。それがイコール名前を知る事になるのは『わたしは、ダニエル・ブレイク』に通ずるものを感じた。誰かにつけられた名前の重さ、誰かが名前を呼ぶ時の親密さ。
 映画の構造としては「何かを探し、見つけた時にはそれも自分も変わっていた」というハードボイルドの亜流で、そうでなくともジェニー(アデル・エネル)の感情を抑制した目や迷いない歩き方、他を寄せ付けない代わりに自分の寄る辺もない姿は、まるでタフな探偵のようであった。だが他者を拒絶しているわけではなく、研修医のジュリアン(オリヴィエ・ボノー)への「患者の痛みに影響されすぎる」(されないようにしろ)という助言は医者にとっては重要な要素で、事件の前でも後でも患者やその家族に対して、私ができる事はするけれども最後に立つのは自分の足なのだと、自分を含めたそれぞれへの自立を見据えているのだ。それでも割り切れない思いを抱えて、「私は少しは変わったのだろうか」と思いながらぎこちなくハグをした感触だけが、彼女がここにい続ける理由であり、確信なのであろう。
 本作で描かれている拒絶と許容は、おそらくヨーロッパの難民問題のメタファーだ。叩かれたドアを開いて、誰にでも手を伸ばす事が、この問題の肝要なのだと言いたいのかもしれない。現在のフランスからこの声が出た重みはよくわかる。しかし、受け入れ続ければいつか必ず迎える限界と破綻にも思いを馳せてしまった。