不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

T2 トレインスポッティング/敗れちまったあの日のために


 初めて『トレインスポッティング』を見た時、「NO FUTURE」をおでこに貼りつけて、それでも未来にほんの少し手を伸ばしながら今を駆け抜けて行くイギリスの尖がった連中を見てゲラゲラ笑い、しかしどこか憧憬の念を抱いていたわけだが、あれから20年後の彼らを見た時にまさか「あいつらは、俺だ、俺だったんだ、そしていまの俺だ」と突き刺さってくるとは夢にも思わなかった。
 夕暮れ時を迎えた中年共が、感傷と憂鬱を受け入れる解放の儀式を終えて帰っていく。ベグビー(ロバート・カーライル)は「俺みたいな人間は目の前の人生を素手でつかむしかないんだよ」と叫び、その「目の前の人生を素手でつかむ」事を先にレントンユアン・マクレガー)にやられたからこそ怒りが悔しさと共に倍増されたのだろうし、レントンの足を抱きしめる瞬間にそれらが昇華して解放の真っただ中にいた事は明らかで、たとえ帰っていく場所があそこでもベグビーはある程度満足したのではないか。サイモン(ジョニー・リー・ミラー)はまぁ一人で立って歩いて行けるだろし(それはそれで彼のやりきれなさなのかもしれない)、誰か(何か)に支えられていないと立てなかったスパッド(ユエン・ブレムナー)は自力で前へ進む術を身につけた。人生を「物語る」事で彼は再生していったのだ。
 だが、実際にどこかへ行って、敗北と共に戻ってきたレントンが帰る場所は自宅の子供部屋で、とりあえず部屋でやるべき事は針を落としたあの曲とともにのけ反る事で、この20年をチャラにするのか、空っぽの無意味にするのか、どちらにせよ人生は続くし、屈託は改めて抱えたままで、「未来を選べ」とまくし立てた己の自問に自答する時間が続いていくのである。
 現在を裏切り、過去を物語り、未来を迎える。前作と同じように一つの裏切りが描かれているが、かつては裏切って胸躍らせて新天地へ行ったのに対し、今作は裏切ってでもホームへ戻っていく。この違いが20年の世界の変質なのかもしれない。何をしても、しなくても、遣る瀬無さを携えた人生模様に、やけに胸が詰まった。いずれにしろ外れた道を突っ走ってきた彼らを、道徳や倫理ではなく、20年の時間とそれに伴う世界の変質によって打ちのめし、それでも続く人生での「選べ」の問いかけは、相手を、自分を、見ている者を串刺しにする。
 その痛みだけが俺たちをどうしようもない明日にいまも掻き立てる。

選べ、ブランド物の下着を。むなしくも愛の復活を願って。
バッグを選べ。ハイヒールを選べ。
カシミヤを選んで、ニセの幸せを感じろ。
過労死の女が作ったスマホを選び、
劣悪な工場で作られた上着に突っ込め。


フェイスブックツイッター、インスタグラムを選び、
赤の他人に胆汁を吐き散らせ。
プロフ更新を選び、“誰か見て”と、
朝メシの中身を世界中に教えろ。
昔の恋人を検索し、自分の方が若いと信じ込め。
初オナニーから死まで、全部投稿しろ。


人の交流は、今や単なるデータ。
世界のニュースより、セレブの整形情報。
異論を排斥。
レイプを嘲笑。リベンジポルノ。
絶えぬ女性蔑視。


9.11はデマ。事実ならユダヤ人のせい。
正規雇用と長時間通勤。
労働条件は悪化の一途。
子供を産んで後悔しろ。
あげくの果て、誰かの部屋で精製された、
粗悪なヤクで苦痛を紛らわせろ。


約束を果たさず、人生を後悔しろ。
過ちから学ぶな。
過去の繰り返しをただ眺め、
手にしたもので妥協しろ。
願ったものは高望み。不遇でも虚勢を張れ。
失意を選べ。愛する者を失え。


……彼らと共に自分の心も死ぬ。
ある日気づくと、
少しずつ死んでた心は空っぽの抜け殻になってる。
未来を選べ。