不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

はじまりへの旅/ノームおじさんも困り顔


 予告からイメージしていたのはファニーなナチュラリストによる、ドタバタ文化衝突劇だったのだが、あにはからんや頭でっかちなチョムスキー狂いのリベラリストによる思想実践反乱劇とは思わず、おかしさもファニーではなくストレンジの方だし、それもいつしか痛々しさに変わっていった。「自分は正しい」ではなく、「俺は間違っていない(≒間違っているかもしれない)」が付きまとう理詰めの生活が破綻を迎えるのは自明の事で、それによって流した涙こそが見るべきものなのだろう。
 なので、その後の諸々はオマケに過ぎないんだけど、「死者の埋葬」をめぐるあれこれを見ると、死者本人の意思もあるけれども、結局は葬儀や埋葬の仕方なんてものは生き残った者のためのものであって、二つの埋葬をわざわざ行なったのは、それぞれのやり方でまずは終わらせなければ始められないのだという、どんな思想・宗教・文化を持っていたとしても変わらぬ普遍的な事のためであったろうし、最後の火葬のシーンは楽園で溜め息をついているように見えてしまったのだった。そう考えれば、この邦題は言うほど的外れではない気がする。
 髭モジャ姿も真っ赤なスーツ姿も、ヴィゴ・モーテンセン120点の色気でした。