不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

沈黙 ―サイレンス―/上ではなく、横にいる


 原作未読。「日本は沼地だ、根付かない」という言葉が全てであって、根付かせるという発想は思想の上書きで、それがどれだけ傲慢であるかは現在の私たちこそ痛烈に感じられるはずだろう。拷問は暴力そのものだが、「《これが普遍的な事実だ》としてキリスト教を持ち込んだ宣教師もまた、日本に暴力を持ち込んだといえるのではないでしょうか」というスコセッシの問いかけは*1キリスト教と共に拡大してきた西欧諸国の概念や手法への疑義であり、アカデミー賞が本作を撮影賞以外でノミネートもさせなかったのもよくわかる(黒が映える撮影はすばらしかった)。
 同時に、井上筑後守イッセー尾形)が吐き捨てるように百姓を侮蔑したり、嘆息するように「日本とはそういう国だ、どうにもならぬ」と零したり、後日ことあるごとにロドリゴアンドリュー・ガーフィールド)に棄教の手紙を書かせたりするのは、統治者としての彼の苦悩の一端であったし、またやはり植え付ける事ができない沼地日本の再確認でもあったのだろうと思う。
 出典は忘れてしまったが、塩野七生が「聖地から離れた辺境ほど信仰は純粋になる」と指摘し日本はその代表的な例で、続けて「本国では棄教した者を復教させるシステムさえある」とキリスト教の強かさも述べた上で遠藤周作のナイーブさを皮肉った事があった。実際にそんなシステムがあるのか調べてみたがよくわからず、ともあれシステムになった信仰への反発としてこういった純粋な信仰に、少年時代に司祭を目指していたというスコセッシが思いを馳せて満を持しての監督だっただろう。
 あの時代の日本で外国語が堪能な人間がそんなたくさんいるのかとか、幻視的にしようとして失敗した演出とか、神の肉声が聞こえちゃったりとか、ガクッとする瞬間もあったけれど、全編シリアスで重い話を退屈させずに三時間弱を見せるスコセッシの手腕はさすがだし、中でも虫の声が突如消えてタイトルが浮かぶオープニングと、虫の声が聞こえ続けるエンドロールという二つの重さがずっしりと感じられた。
 上書きをしたり植え付けたりするのではなく、弱き者でも、愚かな者でも、そして裏切り者でも、誰であろうとその傍にあり、見える形でも、聞こえてくる言葉でもなく、自らの内側にしかないのだというささやかで確かなものが信仰で、すなわち信仰とは一つの行動/思考、さらにいえば一人の人間の形そのものなのである。ロドリゴが最後に手に収めた十字架は、自身のものでも教会のものでもなく、イチゾウ(笈田ヨシ)が作り、モキチ(塚本晋也)から託された簡易なものであった事もその表れなのだろうし、またその十字架は誰がそこに置いたのかを考えると、沈黙と共にある信仰心は境界線を越えていくのだと思うのだった。
 本作は寺の坊主と一緒に見たのだが、感想が分かれたのは、キチジロー(窪塚洋介)の中に善なる者を、あるいは彼自身を無垢なる存在と見るかという点だった。坊主は無垢なる者として見ており、ために窪塚の演技は物足りなかったという。一方、私はキチジローを不完全な人間そのものと見ていて、あの演技でよかったと思っている。どちらが正しいわけではない。キチジローがロドリゴの合わせ鏡の存在で、彼の悪循環に見える苦悩と悶絶こそが信仰に違いないという点では一致した。
 最後に、中盤でヌッと高山善廣が出てきたのには笑ってしまい、エンドロールで確認したら役名が「Large man」だったんでまた笑ってしまった。たしかにでかいよね。