不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

最近読んだ保坂本二冊

 保坂和志『試行錯誤に漂う』(みすず書房。『みすず』に連載されていたコラムというかエッセイというか評論というか……とにかく、小島信夫ベケットカフカの三人(と数人)をぶん回しながら繰り返す試行錯誤の渦。よくここまでこねくり回せるなと感心すらする。ただ、わりと当たり外れの回があった気も。俺はTwitterで『未明の闘争』について《異形すぎる。内容も文体も。何なら数ページ飛ばして読んでも大丈夫ではないかと思うくらい異形》と書いたんだけど、著者本人が「場面一つごっそり抜けても全体としては大丈夫」と書いていた。やっぱりそうなんか。
 おもしろく読んだけど(咀嚼はしきれていないが)、傑作と思った『遠い触覚』には及ばなかったかな。何が違うんだろ。うーん、もう保坂和志は異形の臨界点を超えちゃった印象だな。よくも悪くも、また先へ行ってしまっていて、先へ行くのがいいかどうかっていうのは難しいところ。読者置いてきぼりとも言えるし。

試行錯誤に漂う

試行錯誤に漂う

 こちらは同時期に発売された短編集『地鳴き、小鳥みたいな』(講談社。最初の短篇で「あの人は当時五十代くらいで、おじいさんみたいだったけど若かった」とあった数ページ後に「計算間違えてた、六十代後半くらいだった、やっぱりじいさんだったわ」(どちらも意訳)とあっさり覆していて、もう本当に自由な小説ばかり。
 いや、もはや小説と言いきれない気がする。「キース・リチャーズはすごい」は、小説なのか? キースよりもサザンオールスターズへの言及の方が多いのはいいとして、音楽論ではないがエッセイでもない。他にも「あなた」と呼びかけたり、「わたし」が「保坂」になったりと、中心点を見せずに、ひたすらわからないものを描いている。小説とエッセイやコラムとの境界線をどこまでも曖昧にし、現実と虚構、記憶と体験と思考を混濁をさせる事で、それ全体をして「小説」と言っているのかもしれん。
 小説はどこまで自由なのか、小説においての自由とは、という点からそのまんまの『小説の自由』を読み返してみようかな。
地鳴き、小鳥みたいな

地鳴き、小鳥みたいな