不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

語る方法は身体だけ/ザ・トライブ


 少ないカット数で長回し、それによって生まれる異常な緊迫感、エゲつない暴力や性描写、過剰と言ってよい表情とボディタッチ、これでもかと見せつける69、そして剣の切っ先のように小刻みに揺れながら相手へ語りかける又は威嚇する手先で描かれるのは、言葉なき対話というよも感情のぶつけ合い、魂の衝突であり、その最果てにある無言の衝撃がすさまじい。あのシーンが静かに雪降る時だったのも、それを助長させていた。撮影上仕方ないにしても、開けたドアは閉めろよなとチクチク思っていたら、まさに目の前で閉める瞬間が訪れ、その仕草と音に打たれた。
 ご存知のように本作にはセリフも字幕も音楽もないが、物語を見失う事はない。というか、こちらが「わかる範囲」しか描いていない。ざっくり言えば、一つの不良集団(と不良少年)のよくある話で、何となく展開はわかるのだ。舞台設定もごく閉じられた空間で、一度把握すれば逸脱する事はないだろう。これがもっと範囲の広い、いわゆる日常の生活――街で買い物をしたり、食事をしたり、その辺の人と話をしたり――を描いていたら、ここまで観客はわからなかっただろう。だから、挑戦自体は斬新だったけれど、耳が聞こえる/聞こえないの境目を見る方法としてはわりと中途半端なものだったと思う。そうであったからこそ、この映画が女性たちの物語として見えた気もするのだが。彼女たちの懸命で悲痛と言っていい戦いが。
 もし携帯やスマートフォンがある時代設定だったら、全く違う物語ができあがっただろう。遠くにいてもメールで意思疎通ができるし、スカイプで電話すらできるのだから。もしかしたら現代は、聾唖者にとって新世界を開いたと言えるかもしれない。たまたま私が見た回には聾唖と思しき方が数人いた(手話をしていた)。手話は世界共通ではないそうなので、映画の登場人物が何を語ったかはわからないが、我々が字幕なしで外国の映画を見ているのと同じだとしたら、彼らはこの映画で「やかましいなぁ」と思うシーンがあったかもしれない。聾唖の人がTwitterのTLの言葉の洪水を見て「初めて『うるさい』という感覚がわかった気がする」という逸話を思い出し、言葉なき映画を見て、かくも世に言葉が溢れているのかと感じてしまった。