不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

続・本の所有

 西牟田靖『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社。愛すべき「荷物」である本と、物質的にどう向き合えばいいのか――自身の体験談を交えつつ、過去の蔵書家のエピソードや最新の自炊事情などにも触れながら、本好き永遠の課題に果敢に挑んだ一冊。ネット連載時にも読んだ、本や資料を病後(癌)に全部処分したという内澤旬子さんの話*1は、やはり強烈。『捨てる女』(本の雑誌社)にはその辺の事が書かれているので、併せて読むのもいいかと。
 以前、本の所有について日記を書いた事があって、そこでかつてあったブログからの孫引き文を引用したが、ここでもその文章を再度引用する。

「蔵書を持たなくなったのは大学卒業以来です。実は私は学生時代、無類の本好きで、古書店主が経営するアパートに下宿したほどです。本を読み終えると表通りの古書店に持ち込み、別の本を買う。土木作業のアルバイトをしては全集を買い、飲食代を節約しては文庫本を手に入れる、といった具合でした。蔵書は数千冊を下らなかったでしょう。新聞社への入社が決まり、私は蔵書を郷里に送ろうと、知人に駅までトラック搬送を頼みました。ところがその夜、路上に放置してあったトラックの荷台から、数十箱の段ボール箱が消えてしまったのです。文字通り汗水流してようやく買ったニーチェ全集や、数ヶ月節約した末に古書店から手に入れたシュールレアリスムの絵入り原書など、背表紙に思い出を刻んだ本ばかりです。落胆ぶりは自分でも哀れに思うほど深いものでした。しかし意気消沈して数日後、今度は不思議なほどさっぱりとした気分になりました。それまでは物体としての本に執着し、ふと思いついた時に手を伸ばして文章を読み直し、自分の記憶を確かめることに無上の歓びを感じていましたが、すっからかんになってみれば、むしろ本を何も持たないことに爽快な気分を味わいました。どうせ失ったなら、この先も本を持つまい。本への執着がなくなったのはその時でした」
外岡秀俊『情報のさばき方―新聞記者の実戦ヒント』朝日新聞社

 そして引用者は、《「物質」だとか「量」だとかいったわかりやすい尺度などに惑わされない、地に足のついた確固とした教養が文章の端々から感じられる》と続けていた。同感といえば同感なのだが、一方で目に見える物質への執着、言い換えるならば「自分が向き合ってきた本たちと、できれば長く付き合っていきたい」という願いも、あっていいのではないかな、と思う。それはそれで本への思い、愛なのだから。
 俺の場合、先の地震時に積んでいた本が崩壊して、狭いアパートがひどい惨状になっていろいろと考えた。ちょうど引っ越し先が図書館の近所だったので活用しているけど、手元に置いておきたい本は結構あるので買う量としてはそれほど変わっていないと思う。電子書籍という道もあるが、いまのところ考えていない。
 事ほど左様に、本好きにとって増え続ける本との付き合いとは、自分との折り合いに他ならない。持ち続けるのか減らすのか、紙がいいのか電子にするのか……結局「好きにしろ」以外何物でもない。ないのだが、こういう葛藤は自分のものでも、他人のものでもおもしろいのだから始末が悪い。つまり、そういう葛藤の本なのだ。ある意味で、出版文化の最前線の一つでもあるわけなので、興味ある方はぜひ。

本で床は抜けるのか

本で床は抜けるのか