不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

父になりたかった男/フォックスキャッチャー


 ここで描かれているのは神(父)なき夢の国アメリカにおいての(信仰に関する話も「god」という単語もほどんと出て来なかったはず)、「母の(過剰な)存在」「父の(完全な)不在」で作られた檻で蠢く三匹の男たちである。その内訳は、父へのオブセッションや、父に身を委ねる欲望、さらには父になろうとする渇望で身を引き裂かれそうな二匹と、今も昔も父であり父であろうとした一匹である。故に、本作に登場する誰も自分は似ていないと思うにもかかわらず、それでも誰かに似ている気がしたのは、俺もまた父性へのオブセッションを抱えているからもしれない。
 主役は三者三様、本人になりきっていたマーク・ラファロの説得力はすさまじく、勝者でありながら敗者であり何かを求めながらも拒絶するという存在を見事に演じたスティーブ・カレルは言わずもがな。、強烈な二人を相手にしなければならない分が悪い中、受けの演技をしきって、ひたすら沈殿そして潜行し続けたチャニング・テイタムも爪痕をしっかり残していたと思う。
 説明やセリフを排除し、役者の身体表現のみで感情の揺らぎや精神の消耗を描く手腕は秀逸。その極地はマーク・シュルツ(テイタム)の再生シーンであろう。悪いものを内部に入れて自暴自棄になった後、兄(=父)デイヴ(ラファロ)の叱責によって目を覚まし、心を預け、入ってきたものを全て吐き出し、前に行かない自転車をこぎ続けながらデイブと代理父であるジョン・デュポン(カレル)の二人をドア一枚隔てて眺める。二人がどんな会話をしたのかは聞こえないけれども、確実に自分を巡る会話であり、それはお互いの在り方、つまりは父の在り方について一線を超えるものだったはず。もう少しイメージを膨らますのならば、マークにもジョンにも女の影は一切なく*1、あの絵画室での練習シーンから想像すると彼らの抱えるものはおそらくもう一つあり、だからこそ母が男同士が密着するレスリングを下品だと罵り眼をそむけたのではなかろうか。彼ら二人は疑似父子で繋がる事ができるはずだったのだが、血縁によってそれが切り離された瞬間があの会話に他ならず、あそこがポイント・オブ・ノーリターンだったのだ。
 基本的に中腰以下で相手と密着するというスポーツの中でも独特であろうレスリングの動きや、そこから聞こえてくる息遣い、肉と肉のぶつかる音、マットを唸らす靴音がどんどん澄んで聞こえてくるようになっていく。そしてまた、レスリングとは別の、日常でのハグやボディタッチが、次第にお互いを追い込んでいるかのように見えてきて、最後にマークが辿りついた場所がレスリングと同等の密着とそれ以上の痛みを伴うMMAの檻の中だったのも頷けてしまい、彼がUSAコールと共に入場してくる姿は、痛ましくもその場にいるにふさわしいものに見えてしまった。だから最後のテロップは、蛇足だと思うと同時に、ほんの少しホッとしたのだった。

*1:作品では触れられていないけど、ジョンは以前結婚していたらしいが(すぐに離婚したそうな)。マークも事件後に結婚したが家庭は破綻したとか。