不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

思いは消えるわけでなく

 村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋。前作『1Q84』のBook1、2はそれなりにおもしろく読んだのだが*1、Book3が驚くほどクソつまらなかったもので、村上春樹への気持ちがかなり薄らいだ。あとエルサレム賞授賞式でのスピーチはよかったけど、朝日新聞への寄稿もまたどうしようもないものだったもので、正直なところかなりゲンナリしていた。そんな気持ちだったから、今作も発売日に買ってはみたもののなかなか読み出せず、旅行の移動中にようやく読み始めた。村上春樹の作品はどれもそうだが、読み進めるのが早く行き帰りで読み終えた。
 きっとあちこちに隠喩やメタファーなどあるんだろうが、読後に思ったことを率直にひとことで言うなら、ナイーブな青春/青春後小説といったところだ。還暦こえてこんな小説書くんだから、また書けるんだから、たいしたもんだなとも思う。
 冒頭で「色彩を持たないって、そういう事かよ」と少しずっこけたし、終盤の言葉の端々がずいぶん陳腐なものが多かったし、中途半端なところで切るので「余白を残すのもわかるけど、ここまで書いたのなら最後まで書き切ったほうがいいんじゃないか」と思ったものだが、これまで通りの村上春樹の作品でありながら新しさも感じられたのは確かだ。
 高校時代の仲の良い友人グループから切り離された絶望と孤独を抱えて生きる多崎つくる。10数年経って、故あって切り離された理由を探りに行くという、世界とは関係のない、不思議な事も起きない、至ってパーソナルな小説だ。単純でわかりやすい。だが、真にあるのは「単純に見えるけれど、世界は複雑なんだよね」という、村上春樹の世界観そのものだと思う。
 友人たちとの話に始まり、恋人との距離、自分の名前、父親との関係、駅をつくるという自分の仕事――いつだったか、これまでは世界からオミット(除外)する事を意識していたが、いまはコミット(関係)する事を考えていると村上春樹は書いたか言ったかしたが、この小説はオミットされた少年/青年が再び世界にコミットする事を描いている。駅がその象徴だろう。
 だから、これまでの村上春樹作品に比べて血肉が通っていると感じられて、もっと言えば親しみすら感じる。その親しみは、決して単純な心温まるものではないけれども、そういうものを村上春樹が書いた事を、一読者として嬉しく思う。決して傑作なんかではないし、たぶん読み返す事もほとんどないだろうけど、俺はこの小説は結構好きだね。
 が、これはあくまで小さな作品であり、100万部売れるような作品ではないよ。これが大騒ぎされて、こんなに売れてしまうというのは、ある意味で村上春樹の不幸と言える。この小説は次なる大作への繋ぎの一手と見るのがいいのかもしれん。次を再びのんびり待つとしよう。複雑な思いを抱きながらね。

「たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない」とエリは言った。「もしそうだとしても、君はとても素敵な、心を惹かれる容器だよ。自分自身が何であるかなんて、そんなこと本当には誰にもわかりはしない。そう思わない? それなら君は、どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感を持てる容器に」
 つくるはそれについて考えてみた。彼女の言いたいことは理解できた。それが自分にうまくあてはまるかどうかはともかく。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年