秦早穗子『影の部分』(リトルモア)。『勝手にしやがれ』を買い付け、名づけ親でもある女性の自伝という前情報と、そのポップな装丁から想像していたものとは全く違う、硬派な文体で描かれた「戦う(日本の)女性」の物語だった。自伝的小説とフランスにいた当時の思い出話が交互に展開していく構造だったのも意外。このイメージの乖離はいいのだろうかと思うが、ともあれ、すこぶるおもしろい。文章も構成もかなり荒っぽいから気になるといえば気になるのだが、その行間から溢れる思いが熱っぽく伝わってくる。末尾に《第一部了》とあったが、第二部もあるのだろうか。予想はしていたが、終盤に「舟子」と「私」がじょじょに混濁していく様は映画的で、読んでいて「おおー」と思った。
チーズの選びかたを初めて伝授してくれたのは、ラマルク通りは、坂の途中のチーズ屋である。ある日、ふらりと入ったのだが、この界隈では有名な店らしかった。天井まで、ありとあらゆるチーズが並べられ、黄金色に光り、その見事さに、呆然とし、目を奪われた。
何も分からない私に、おかみさんは好みを確かめ、食べごろの品を選び出す。やがて、このチーズ屋が、ジャン・ルノワールご贔屓の店であるのも知るようになる。アメリカから一時、仕事で帰ってくると、彼は必ずチーズ屋に立ち寄って、籠一杯のチーズを買い込んだという。
ジャン・ルノワールの映画に出てくる食べるシーンにまつわる豊かでしあわせの感覚は、ここにも満ち溢れていた。光と匂いの小さな世界を通じて、理屈抜きで、いや肉体的にジャン・ルノワールの映画の一部分を私は感じとっていた。彼は、カマンベールが、一番好きだったらしい。
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