不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

鬼の一生

 増田俊也木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)を読んだ。全700ページと分厚い超大作ながら、夢中でぐいぐいと読み進み、どっぷりと昭和柔道史および戦後の魑魅魍魎の世界に浸る事ができた。右を向いても左を向いても、少なくとも聞いた事のある伝説級の名前がゴロゴロ出てきて、彼らの生年月日を考えれば当たり前ながら、戦後すぐの日本は一体どんな世界だったんだよと思ってしまった。この本をドンと出した新潮社は偉い。そして長きに渡り、連載ページを割いてきた『ゴン格』はもっと偉い。
 タイトルを読めば予想されるように、あの“昭和の巌流島”力道山vs木村政彦を中心点に置いた木村政彦伝であり、また柔道史であり、格闘技史プロレス史であり、つまりは戦後日本史そのものである。主要人物事象だけでなく、その周辺を徹底的に調べ尽くし、資料と調査をしまくった大力作。連載されていたのでやや重複が多いのは仕方ないか。ドキュメンタリーには終わりがない、まさに情熱と執念の文学であるノンフィクションの結集と言っていい。力道山vs木村の結末は既知のものでありながらそこへの過程はドラマチックで、たいへんに燃える。
 前半は木村の柔道物語で、師・牛島辰熊と木村との常軌を逸した師弟愛と柔道への狂気がすさまじい。血は水よりも濃いとは言うが、水はどんな形状になっても本質は変わらず残りつづけるのかもしれない。木村政彦伝と書いたものの、木村の人生は牛島のそれと重なり合っていたと言える。
 ところで俺は柔道には疎く、講道館の事しか知らなかったのだが、そんな巷に蔓延る講道館史観を覆す内容の数々に興奮した。特に「いまの柔道は一本とればいいというものばかりで、美しさ、道というものがない」という批判をよく聞いていたし、俺もそれに頷いていたのだが、著者や木村にとってみれば、何を甘えた事をぬかす、ぶっ殺すぞ的な考えだったのである。恥ずかしい限りだ。
 天覧試合からプロ柔道、海外巡業でハワイ→ブラジルへと流れ、辿りついた先が前半のハイライトであるエリオ・グレイシーとの一戦だ。格闘技史上の重要な一戦程度にしか考えていなかったが、ブラジル移民問題なども含まれた社会的事件だったとは。その緊迫感たるやすさまじく、残されたビデオからの分析は奥深い。そして試合後に生まれたドラマに感動するのであった。ここまでだけで一冊の感動ノンフィクションになるところ、このあとでさらなる修羅場と悲哀が待っているのだ。なんという人生ッ!
 とにかく著者の木村政彦への思いが半端なく、アンタが力道山を殺すんじゃないかとわけのわからん事を思ってしまうほどだった。比べるのは失礼かもしれぬが、同時期に『1985年のクラッシュギャルズ』(こちらも感想を書くつもり)を出した柳澤健氏とはちょっと違うスタイルだ。増田氏は情熱のままに書く主観的なノンフィクションで、中立性客観性を持とうとしながらも思いがとめどもなく溢れている。柳澤氏は本人が言うように「ハードファクト」を重視し、冷徹な視線で描かれていて、自身の思いはその冷たさの間に滲んでいる。どちらが好きかというのは好みだろう。
 ともあれ、増田氏は木村政彦に惚れぬいていて、何としても「ガチだったら木村先生の方が強いッ!」を立証すべく東奔西走するのだが、取材をしていくうちに木村のトレーニング不足、日頃の不摂生(というか酒の飲み過ぎ)、なにより「プロレスだから」という危機意識の欠如から、「あの時の木村では力道山に勝てなかった」という苦渋の結論に至る。文章から著者が動揺し、ぐらつき、しかしこの結論を書かざるを得なかった事が伝わって来る。おそらく著者はここを書きながら悔しくて泣いただろう。キーボード2、3個ぶっ壊したかもしれん。この揺らぎがなによりも熱く、胸に来るものがあった。
 そんな本書にも不満な点はあって、まず力道山の強さの分析が弱いところだ。確かに遠藤幸吉やユセフ・トルコらに聞いてはいるが、木村ほど徹底して調べていない。そこにもう少し踏み込んでいただきたかった。
 もう一点書くと、ことあるごとに「プロレスだから勝敗は関係ない(どうでもいい)」という記述を見かけたが、果たしてそうだろうか。勝敗は決まっているから分析してもしょうがないという考えだろうが、仮に決められていたとしても、その勝敗がレスラーや観客にとってどういう位置づけになるか、またその負けはどんな負けなのかという分析は重要なポイントになるはずだ。そもそも木村政彦だって、負け役をやる事にフラストレーションを溜めていたのだから。おそらく「あれはプロレスですから」という思いが先走り、力道山の強さ分析が疎かになってしまったのではないだろうか。
 本書を読んで思い出したのは、菊地成孔氏の言葉である。*1

菊地 だから、信じ、疑い、また信じ、また疑い、もう卒業した、二度と信じるか。と思っても、まだ自分の心から離れない、といったタフな往復。つまり信仰の問題ですけど、日本だとそれがプロレスに過度に集中してますよね。プロレスを通じて、多くの日本人が、信仰の一般的な――とてもタフな――試練を与えられています。プロレス/格闘技ファンが話をしていくと、最後は必ずそこに行きます。いつ、どれほど、どこを信じた経験があるのかという、その経験値の交換会になります。

 手前みそながら俺も以前こんな一文を書いた。

 プロレスを信じる。絶望を覚える。リアルとフェイク、表と裏。それら混濁したもの全てを飲み込んでしまうのがプロレスなのである。本書(『1976年のアントニオ猪木』)を含めた、全ての物語を飲み込んでいるのだ。複雑極まりない、なんて厄介な代物だろう。プロレスファンは、もはや病気である。我々は、面倒っちい、どうしようもなく鬱陶しい、馬場の現実と猪木の虚構に毒された病人なのだ。*2

 この病気の根本は、もしかしたらこの力道山vs木村政彦なのかもしれない。仮にこの一戦で木村政彦力道山を叩きのめしていたら、日本のプロレスは、格闘技はどうなっていたのだろう。馬場も猪木も生まれず、柔道・格闘技が花開いたかもしれない。いや、木村が更なるプロレスの濁流に飲まれていき、より大きな物語が生まれたかもしれない。歴史にifはないけれど、思わず妄想が膨らんでしまう。
 と、膨らみかけたところでキリがないので感想を終える。なんにせよ、「経験値の交換会」である本書を読む事は、楽しくてしょうがなかったです。あー、おもしろかった。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

*1:en-taxi』vol.25 SPRING 2009/坪内祐三との対談「『格闘』―信心と懐疑/拮抗のなかの興奮」

*2:http://d.hatena.ne.jp/dragon-boss/20090311#p1