不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

ホワイトアウト/ブラックイン

 バレエは過去一度だけロシアかどこかの楽団の舞台を見に行った事があり、演目はまさに『白鳥の湖』だった。告白すれば舞踏で全ての表現をするバレエは、当時の俺には退屈に思えて途中で寝てしまったのだが、なんと勿体ない事をしたものだろう。
 ブラック・スワンを見た。監督、ダーレン・アロノフスキー。出演、ナタリー・ポートマンヴァンサン・カッセルミラ・クニスバーバラ・ハーシーウィノナ・ライダー、バンジャマン・ミルピエ。

 自らの生きざまと死にざま含めた全てを肉体芸術で昇華させるアスリートとしての自我の閉塞と解放とその在り様を描いたという意味では、監督自身「姉妹作」と言っている前作『レスラー』と対比になっているのは言うまでもなく、しかし前提や構造は似ているものの本質が全く違い、比べるだけならともかく「『レスラー』と同じ(似てる)」と言うのはいささか乱暴すぎて、的外れではなかろうかと思う。
 ミッキー・ロークがそうであったように、俳優自身の人生と映画の役とがリンクして映画に深みを与える手法(と言っていいのか)は今作でも使われており、ニナはまんまナタリー・ポートマンにしか見えず、これまでどうしても前に出なかった(出られなかった)事を逆手にとった役柄は、彼女を一気にバーストさせ、なるほどオスカーも納得である。あの子役がここまでになるのかと、ため息すら出る。その解放は、次は屈託のない笑顔でお願いしたいとも思ったけれど。
 座を奪われた前女王を演じたウィノナ・ライダーは、俺はあの騒動以来初めて見るのだが(『スキャナー・ダークリー』があるけど、あれはちょっと別ものなので)、ミッキー・ローク以上の腹のくくり方に、この女優を放っておく手はないですよと世界の監督に言いたくなった。まぁ俺が言うまでもないか。
 男にはきちんとは感じ取れないだろう、母と娘の歪んだ――歪んでいないのかもしれないが――愛憎関係が痛々しく、母役のバーバラ・ハーシーは「あなたはどっちにいるの?」と思わずにはいられない紙一重の役を見事に演じていた。時おりホラー映画にしか見えない演出があったのはご愛嬌か。
 男一人ヴァンサン・カッセルを見て「この人、ゲイだっけ?」とふと思っちゃって、自分の中で『イースタン・プロミス』がいまだに印象強いのかと、こんなところで再確認。
 白鳥と黒鳥、二つのモチーフを出した時点でこの映画において「対比」が重要であるのは言うまでもなく、映画内に出てくる全てのものが対比の仕掛けになって深読みする事もこじつける事もでき、見た人が「あれもそうだ」「これもそうじゃないか」とわいわい言い合うのをそっと画面の向こう側から監督はほくそ笑んでいることだろう。細部にまで気を配った美術、大胆かつ不意に入る特殊効果が、悪夢の迷路をさらに複雑にさせていく。
 全ての境界が曖昧で、一つ一つ時を刻んでいくにつれてニナ(ナタリー)は夢に沈み込んでいくかのようで、唯一これは現実だと教えてくれるのは爪と痛みだけだった。ニナが自らをひっかいて作った傷と痛みは、彼女自身の悲鳴でもあったし、足かせでもあったのだ。そもそも、オープニングの夢はいったい誰の夢だ?
 そうして夢と現を行きかいながら、すがる思いで自らの思いを吐き出した相手はずっと憧れだった存在ベス(ウィノナ)だったが、ベスのあの行為と「空っぽだ」という言葉は紛れもなく彼女が夢の残骸である事を示唆しており、それを感じ取って逃げるように(または飛び込むように)走っていったニナは、さてどちらのニナなのか。
 メイクルームでの出来事が開始の合図となった初日の舞台。白と黒、解放と抑制、唯一の現実である虚構を演じる舞台上とめくるめく悪夢と化した現実、それらが集約されたニナの最後のセリフと共にゆっくりホワイトアウトしていく視界。
 万雷の拍手を浴びるカーテンコールを描く事も、しあわせな後日談を描く事もできたはずだし、そうであってほしいとすら思う。刹那の美ではなく、救済の美があってもいいはずだ。しかし、それは間違いなく彼女(ひいてはランディ)と彼女がかけた芸術への冒涜なのだろう。
 一瞬の美。そのための生。悲劇が待っていたとしても飛ぶ。
 我々は、それを見るしかない。美しく儚いものたちを。
 そんな事を思いながら、白がゆっくり黒く染まっていく画面を見続けていた。