不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

世界からの拒絶、世界への拒絶

 原作を読もうと思ったタイミングで、ネタバレを見たか聞いたかしてしまって、別段ネタを知ったところで問題のない物語だとは思うけれど、興が覚めてしまったのでそのまま未読でいた。まさか映画を先に見るとは思わなかった。開始早々、ネタがわかるし、その辺りはぼかして書いたけれど、気になる方は回避お願いします。
 『わたしを離さないで』を見た。監督、マーク・ロマネク。出演、キャリー・マリガンアンドリュー・ガーフィールドキーラ・ナイトレイ。原作はカズオ・イシグロ

 明示されている結末に対し、絶望や諦観、嘆きで塗りつぶす事をせず、彼女・彼らの葛藤を含めて様々な感情を静謐な筆致で省略、象徴、比喩、暗示を駆使し表現しており、その映画全体の抑えた色合いが美しくもせつない。
 主役三人の演技のアンサンブルは見応えがあり、キャリー・マリガンは内に生まれる複雑な感情を抑えつつ巧みに演じており、物語の主軸となって薄幸ながら場を支配する演技。キーラ・ナイトレイは健闘はしていたものの、ちょっと浮足立っていたように見えた。あと、演技よりも妙にしゃくれている事が気になって仕方なかった。正直、最初に見た時、別人かと思っちゃったよ。それとも役作りだったんだろうか。男一人のアンドリュー・ガーフィールドは中盤まではイマイチ掴み切れなかったが、坊主になってからはかなりよかった。子役たちも、純真さと不穏さが前面に出ており、いい演技だった。
 不条理劇を思わせるほど世界との繋がりを断って彼・彼女らの物語は紡がれていく。自ら繋がりを断ったのか、世界から拒絶されたのか、外部の状況は一切見せない事で物語は純度を増し、透き通った美しくも残酷な世界を作り上げている。
 ただ、俺はそこに妙な違和感があって仕方なかった。普段ならば違和感を「ざらつき」と表現してもいいのだが、今作では逆で「ざらつき」が一切なかったのだ。意図的に様々な要素が排除して純粋となったものは、果たして真に「純粋」なのだろうか。物語においてルーシー先生のいくつかの小さな疑義だけが静かに波紋を広げているのだが、それは波紋に過ぎなくて、いつの間にか消えてしまう。透明であるがゆえに、引っかかりがなく、主題とは相反するようにゆるく流れていってしまった。さらに原作ではどうか知らないが、キャリー・マリガン演ずるキャシーの視点のみで語られており、他の二人が何を考え、どう感じていたのかもわかりにくく、少し消化不良だった。その辺は原作を読めば、補完できるのかもしれないが。
 彼女・彼らにとっての「未来」は甘美な響きを持つ言葉であって、しかし彼女らのもとには絶対に訪れず、それを安易に「運命」や「役目」などという耳当たりのいい言葉で覆ってしまう事はしたくない。キャシーのモノローグは、ある意味で遺書そのものであり、そこに綴られている言葉に泣き言は一切なく、この孤独で残酷な世界を受け入れ、生きてきた証そのものだったのだ。
 だからこそ、世界から拒絶され、世界を拒絶した彼女たちの物語が「Never Forget Me(わたしを忘れないで)」ではなく「Never Let Me Go(わたしを離さないで)」というタイトルである事に、胸締め付けられる。
 たしかに彼らの人生は儚げで美しく、この物語は一つの寓話に過ぎないのだが、しかし改めて眺めてみればこれは我々の人生を凝縮したようなものであって、ここで見せる透明な祈りたちは、間違いなく俺たちも持つものなのだと思う。俺なんかは、勝手に先日の猫の死に重ね合わせてしまって、純粋さに違和感を抱きながらも、エンドロールの淡いバックの色にいろいろ感じ入ってしまったのだった。とりあえず原作を読んでみよう。