不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

透きとおった祈り

 たしか塩野七生だったと思うが、聖地から離れれば離れるほど、辺境の地ほど信仰の純度は高くなると言っていた。日本のキリスト教がいい例だと。それは、おそらくは物理的な距離だけでなく、精神的な距離もそうなのだろうとこの映画を見て、感じた。
 『神々と男たち』を見た。監督、グザヴィエ・ボーヴォワ。出演、ランベール・ウィルソンマイケル・ロンズデール、オリヴィエ・ラブルダンほか。2010年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作品。

 物語を少し書くと――1990年代、アルジェリア。人里離れた村にある修道院で、カトリックの修道士たちが住んでいた。診療所としても機能しており、住民も訪ねてきていた。イスラム教徒の地元民とも良好な関係を築いていた。しかし、内戦が激化し、自体は一変。アルジェリア政府やフランス内務省からの帰国要請が相次ぐ中、武装集団が修道院に侵入してくる……。
 帰国し生き延びるか、殉教覚悟で留まるか。
 実際にあったフランス人修道士7名の誘拐・殺害事件が題材になっており、たとえばドキュメンタリータッチにする事も、もっとアルジェリア内戦を含めてドラマチックにする事もできたはずだろう。しかし本作は可能なかぎり焦点を絞り、純度を研ぎ澄まし、純真な信仰心と純潔な思いを静謐な筆致で描いている。
 音楽は使われず、修道士たちが歌う聖歌だけが静かに流れる。歌うシーンになるたびにその響きに聞きいってしまう。その聖歌も、むろん信仰の純度をさらに高めていく効果が、映画としても彼らにとってもあるのだが、たった一度だけチャイコフスキーの「白鳥の湖」が流れるシーンがある。大音量で流れる中、食事をする修道士たちはそこで初めて感情が決壊し、溢れ出てしまう。そこで見られるのは、信仰=聖歌と感情=一般音楽との見事な対比であり、そしてまた混濁でもある。信仰の是非を問う二元論ではなく、信じる事と感情という信仰におけるグレイゾーンに飛び込む事であり、それを見事に描ききっている。
 正直言って、この映画を俺はどこまで咀嚼できたのか、自分でも疑問だ。危機的状況での宗教の役割であったり、信じる事の力であったり、宗教というシステム自体が描かれているのであれば、信じる神を持たない俺でも外部からの眺めとして理解できる話なのだが、この映画はそうではない。あくまで神や教義は、そこにいる/あるだけであり、奇跡は決して起こらない。深く踏み込んでいるのは「信仰」というたった一つの行動/思考であり、一人の人間の形そのものなのである。つまり、徹底的に内部の話であり、とても安易には入り込めない。雪の降る中、歩き、そして消えていくその後ろ姿に、神の御心とか殉教とかいう言葉はあれど、その一言で彼らの決断と信仰心を埋葬していいのだろうかと疑問に思ってしまう。俺がかける言葉は一切ない。
 だが、同時に、2011年の日本でこの映画を見る事は、その参列に参加するような気になってしまうのも、また事実だ。
 たとえば信じる事とか、たとえば芸術の力とか、たとえば目の前に現れない神や起こらない奇跡とか、たとえば共同体とか、たとえば理性や感情の果てにあるものとか、たとえば美しき思いとかを。
 状況や立場は全く違えど、俺は思いを馳せてしまうのだった。