不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

悪魔が来たりてぶんなぐる

 オープニング早々、「地獄へようこそ」と言わんばかりに始まった殺戮劇とその後の惨劇の残酷さ非情さっぷりには、なかなか度肝ぬかれるものがあるが、そのテンポの悪さとガチャガチャな演出が気になった。
 『悪魔を見た』を見た。監督、キム・ジウン。出演、イ・ビョンホンチェ・ミンシク

 先日、初めて『オールド・ボーイ』を見て、あれは黒幕側の物語であるとは思いつつも、主人公を演じたチェ・ミンシクにすっかり魅入られてしまって、本作も見に行く事にした(役柄のせいかだいぶ太っていたな)。とはいえ、監督が『グッド・バッド・ウィアード』*1の人だったので、正直言って心配もしていて、残念ながらその杞憂は的中してしまったのだが。
 サイコキラー・ギョンチョル(ミンシク)に婚約者を殺され、復讐を目論むスヒョン(ビョンホン)の物語。単なる仕返しではなく、追い詰めては暴力をふるい、しかしトドメをさす事無くまた泳がせる。復讐のキャッチ・アンド・リリース。途切れる事のない暴力の連環。ニーチェ曰く「怪物と戦う者は自らが怪物と化さぬよう心せよ。お前が深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込んでいるのだ」、まさにこの言葉を体現するかのような作品だった。
 この映画でおもしろいのは、暴力のベクトルがいくつかあって、それらがすれ違ったり、交差したり、ぶつかったりしたりして、また新たな暴力発生装置へとなるところである。あちらこちらで発生する暴力によって勝者と敗者、生者と死者がめまぐるしく変わっていく。携帯電話やGPSなどハイテク機器がどんどこ出てくるが、しかし暴力行為自体は素手やハンマー、消火器などその辺にある道具を使って行われ、響く鈍い音、飛び散る血しぶきが生々しく、痛い。
 より深い復讐と暴力を求めた二人の連環は、いずれ互いの家族をも巻き込み、類まれなる終幕へと突き進んでいく。その終幕直前、車から降り立つ血まみれのギョンチョルに、胸が震える。
 見ているうちに、観客はいつしか「何が正義で、何が悪か」をほっぱらかして、「どうやって追い詰めていくか」「いつ、誰が、どこで、誰を、何でぶん殴るのか」という事に興奮し、甘美な想いを抱きながら映画もドライブする……はずなのだが、イマイチそうはならなかった。
 はっきり書くが、演出や編集のセンスが全然ないのだ。アクションだって、画面がガチャガチャで何がなんだかわからない。これは『グッド・バッド・ウィアード』でもそうだった。こちらの胸をムンズと掴むようなカットはいくつもあるが、それはあくまで俳優たちの演技だし、逆にそれらが効果的になっていない。生首ゴロリとか、ゲリグ×描写とか、汚いものをそのまま見せるのもへったくそだなぁと思う。
 一番気になったのは脚本の粗だ。何も整合性を求めたり、ご都合主義だとか「スヒョン強すぎだろ」とか批判したりはしない。だけど、肝心の「狂気」という部分において、ちょっとどうなのだろかと疑問に思うのだ。 
 スヒョンは復讐という大義名分(?)を持ちながらも、そのうちに甘美な暴力欲求に身を任せるようになっていく。しかし、復讐を達成した彼には達成感も満足感も微塵もなく、胸にある虚無に慟哭する。その姿は悪魔ではなく人間そのもので、そこにある種の人間の強さと弱さがにじみ出ていて、胸に来るものはある。しかし、彼がだんだんと「怪物」へと変化していく段階において、俺の目から見たら彼はどう見ても正気にしか見えないのだ。彼は「復讐」のために動いているはずが、各所に他の理由、たとえば「正義」とか、そういったものが入ってくる。それって、狂気ではないよ。だから、なぜ彼が最後にあれほどの狂気の沙汰の行動に出られたのかが、わからん。
 一方、ギョンチョルは確かに生粋のサイコキラーではあるのだが、ならば最後の瞬間に見せた人間性はなんだったのだろうか。もしもそこに辿りつくのであれば、彼の背景や物語を描く事はないにせよ、何かしら伏線らしきものを入れておくべきではなかろうか。
 過剰で、饒舌。だが、足りていない。
 理解させてほしいとは思わない。納得させてほしいのだ。
 同じ「キ」印殺人鬼を描いたという意味では、本作に比べれば『冷たい熱帯魚』はかなりポップで、このバイオレンスさにはほれぼれするところもあるが、完成度はずいぶん低い。もったいないことこの上なし、な一作であった。
 ところで、この作品は3回見て応募すると、何か景品が当たるらしい。イ・ビョンホンファンのオバちゃんだって何回も見ないだろ……とか思っていたら、すでに2回見に行っているオバちゃんがいたそうな*2。韓流スター好きだからってこの映画を何回も見に行くなんて狂気そのものだな……。