不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

偶然の重なり合い

 金井美恵子『タマや』を読んだ。金井美恵子の小説を読むと、いつも「何がどうなって、どうなったんだ」という、妙なモヤモヤした気持ちが残るのだが(腑に落ちない、欲求不満という意味でなく)、本書は珍しく男性が主人公なのもあってそのモヤモヤが濃かった。都合よい展開と、独特の息の長いリズムの文体で、するするするっと読ませる。著者があとがきで言うには、モデルになった人物が現実に存在し、現実に起きた出来事らしい。こんな偶然の重なりが起こるのなら、現実も悪くない。たぶん。目白四部作、他も読んでみるか。

 アルバイトの複写の伸しは割合簡単に進み、ついでに頼まれた、映画評論家が大昔パリで撮ってきたというカビだらけのフィルムの伸しをやっていると、どきっとしてしまったのだが、伸し機の光線を浴びた印画紙に浮かびあがったのは鏡にむかって髪の毛を結いあげるような形で持ちあげながら微笑んでいるアンナ・カリーナのスナップで、何枚も何枚もアンナ・カリーナのいろいろなポーズのスナップが、カビだらけのコダック・フィルムに映っているので、夢中になって伸しつづけ、酸っぱい匂いの定着液のバットのなかで、液体のゆらめく皮膜を通してゆっくりと徐々に形をあらわし、もやもやとした雲のように微笑を浮かびあがらせるアンナ・カリーナに恍惚となった。撮影したのはぼくではないのに、定着液のなかに浮かびあがるヴィーナスを所有したような気持ちになり、自分のために念入りに焼き加減の調子をきれいに仕上げた四つ切りに引き伸したアンナの写真を撮影者には無断で持ちかえることにしたのだけれど、その時、ぼくはふと、自分がカメラマンではなく、優秀な暗室マンに向いているのかもしれないなあ、と、いくらか隠微な気持になったことも確かだったけれど。
(「賜物」)

タマや (河出文庫)

タマや (河出文庫)