不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

休日派メモワール.日記

 アイロンをかけて、ようやくの衣替え。冬でもあまり着ないセーターを今まで出しっぱなしとは、無精にもほどがある。汗だくになったのでシャワーを浴びてから外出。渋谷でMさんと会って食事。久々に「龍の髭」で海老チリチャーハン。ジャンク中華、うまし。食後はタリーズで談笑。久し振りなので、近況含めいろいろと。
 解散し、恵比寿へ移動し、東京都写真美術館へ。古屋誠一写真展「メモワール.愛の復讐、共に離れて…」
 古屋氏の妻クリスティーネのポートレイトが展示されているのだが、そのクリスティーネはもうこの世にいない。精神を病み、自死したのである。俺はこの事を、写真展に行く前に知った。それがいい事なのか悪い事なのか、少々考えてしまう。どの写真の下にも撮影場所と撮影年が明記されており、まずはそこに目が行ってしまう。それは、「ああ、このころは……」という、単なる情報の確認に過ぎない。純粋に作品を見る、というのはなかなか難しいことだけど、あまりにも濃いフィルターが目の前に出来てしまっている。
 しかし、撮影年をわざわざ明記したのは他ならぬ古屋氏であり、古屋氏は「メモワール」シリーズでクリスティーネのポートレイト展を何度も繰り返している。つまり、ある意味で古屋氏自身がフィルターを作り出し、また彼自身がフィルターとなっているのだ。
 古屋氏は出会ったその日から亡くなる前日まで妻(と子供)を撮り続けた。現在進行形として家族の肖像をただ撮影したかっただけだろう、その思いと、その後の思いと、その後の思いと、その後の思い。
 見る者としては「死」という結末・未来を通して、ここに切り取られた「生」の瞬間を見るしかない。おそらく古屋氏も、そうやって常に見てきたのだろう。
 笑みはなく、凍てつく目で遠くを見つめるクリスティーネの後期の写真から、時を逆行するように写真は展示されている。死に近い時も、子供といる時も、幸せな時も、ずっとそこにある静かな気配。
 古屋氏の写真展は初めてだったが、最初がピリオドがついた「メモワール」シリーズの最後でよかったと思う。この古屋氏の歴史を、俺はうまく受け止められない気がする。
 最後の数枚はクリスティーネの屈託のない、かわいい笑顔。幸せの瞬間を思いだすためにそのような展示の仕方にしたのではなく、きっと、離別を受け止めるためにしたのだろう。その笑顔に、そっと背中を押されて、会場を出た。
 写真展と、いまだに慣れない靴のせいで疲れたので食材を買って帰宅。夕飯は焼いた豚肉、キャベツとしめじの炒め物、白米。
 ラジオを聞きながらネットしたり、読書したりで、だらだらと時間を過ごす。明日くらいから忙しくなりそうだ。