不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

銀髪鬼の天使的な言葉

 穂村弘『絶叫委員会―天使的な言葉についての考察』を読んだ。都築響一の『夜露死苦現代詩』と似ているが、もっと身近で、もっと素朴で、もっと呟きだ。巷に転がっている「天使的な言葉」を拾い集め、見つめている。詩人独特の敏感なアンテナに引っ掛かった言葉たち。特別でない、平凡な言葉が、並び方や場所やタイミングで時にほほえみ、時に凍りつく「天使的ば言葉」になるおもしろさ。穂村氏の文章は、いつも俺にはゆるすぎるのだが、本書は取り上げているテーマとうまく溶け合い、読めた。紙の白い部分の多さは気になったが。
 ところで、本書には銀髪鬼フレッド・ブラッシーのエピソードが載っている。ブラッシーと言えば、力道山逝去時、外人レスラーがそろって普通の追悼コメントを出す中、「リキとは地獄で決着をつけなければならない」とヒールとして見事なコメントをしたエピソードが有名だが、ここに掲載されたものは知らなかった。少々長く、しかも発売されたばかりの本からなんだが、かなりグッときたすばらしい話なので、引用させていただく。

 テーマが重ければなるほど、そんな筈ある言葉を捉えるのは難しくなる。いつだったか、テレビでフレッド・ブラッシーのエピソードが紹介されていたのを思い出す。銀髪の吸血鬼の異名をもつ稀代の悪役レスラーの素顔は温厚な紳士だったらしい。そんな彼の試合を見てショックを受けた母親が尋ねた。


「リング上の恐ろしいお前と、私の知っている優しいお前と、どっちが本当のお前なの?」


 紹介者によれば、そのとき、ブラッシーはこう答えたらしい。


「どちらも本当の私ではない」


 鳥肌が立った。なんて凄い答なんだろう。この「本当の私」は前掲の「本当の愛」などとは全く次元が違っている。
「悪役レスラーは商売で、リングを降りた僕が本当の僕だよ」とでも答えておけば角は立たないだろう。しかし、突き詰めて考えれば、やはりそんな筈はないのだ。
 自然な愛情に充ちた母の問いかけには真実に関する認識の甘さが含まれており、ブラッシーはその受容を潔癖に拒否した。非情なまでの誠実さに感動する。しかも、彼の答えは予測可能な「どちらも本当の私だ」ですらなかったのだ。かっこいい。かっこいいよ、ブラッシー。
 だが、と私は思う。みえない真実に対する彼の姿勢はいったい何を意味していたのだろう。母親を悲しませてまで守られる誠実さは、例えば表現というものの本質に関わる要素ではないか。テレビの視聴者を何人もショック死させたと伝えられる銀髪鬼は、ひとりの表現者だったに違いない。
(そんな筈ある/ない)

絶叫委員会

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