不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

まさに無頼派

 西村賢太『随筆集 一私小説書きの弁』を読んだ。初めての西村作品だが、おもしろい。西村氏は大正期の小説家「藤澤清造」の事を偏愛しており、小説でもその事ばかり書いているそうだが、この随筆集も変わらず。私小説家の随筆というのも、ずいぶんひねくれた本だ。
 藤澤清造の評伝やら何やらを書きまくっているのだが、偏愛する作家に自身の姿を重ね合わせ、文章の隙間から自我が匂ってくる。取り上げているネタはどれも同じようなものだが、うまく書き方や文章を変える事で違う味になっている。そうやって、繰り返し繰り返し語っているのは、偏愛する作家と自分自身の事なのだ。ある意味で随筆であると同時に、違う形の私小説かもしれない。

 この時期から野垂れ死にに至るまでの清造の辿った一本道を考えるとき、そこには戯作者精神を持つ男の強烈な自己規制と云ったような、固い意志を見る思いがする。それはもう自分は文士以外の何者でもないと云う自覚、戯作者は戯作者になり切り、それに徹した生活をしなければならぬと云う意志、それでダメならこの世とオサラバすればいいだけのことだと云う八方破れの覚悟。それは遠からず破滅、或いは自滅することは実感として承知しながら、自分で自分の存在のかたちをこうと決め、その道を突き進むと云うよりも、その道を踏み外さぬように自己をコントロールしていると云った塩梅式のものである。
 清造の場合、もう近々破滅してしまうことは知っていて、あえてそれをやっている。言い換えると作家としてはもう終わってしまっていたような清造が、ここに至りようやく破滅型文士としての出発を果たしたかのような感がある。
(「藤澤清造―自滅覚悟の一踊り」)

 即物的で、真っすぐにひねくれている。常に頭にあるのは金の問題というのが、笑えるようで身にしみる。この本には出てこないが、女性関係も大変だそうな。藤澤清造の全集を作りたいが金がなくて、うまくいかない。でも、それが俺の生涯の仕事だ、と言っておきながら、先に藤澤清造の墓の横に自分の墓を作っちゃったりするあたりが、駄目男たる所以なのだろう。その金、全集に使えよ、と言っても聞かないのだ、この人は。その前に墓を作らないと駄目なんだと信じていたのだろう。
 文章は現代文学のカジュアルさを拒否しているのに、突然《フザけんな、こいつこの野郎めが》と今風の口調になったりして、他に類を見ない。一遍、携帯小説みたいな文章があって、これまたすごかった。
 小説も読んでみよう。同時に、現在の私小説も気になってきた。というのも、中に車谷長吉『飆風』の書評があって、こう書かれていたからだ。

 おそらくはこの私小説を読み、例えば藤澤清造葛西善蔵の作のようにその作品世界に共鳴し、やがて作者に惚れ込むと云う読者はそうはいないであろう。何より車谷氏の作の方で、そうした読者の共感のすり寄り、ベタついた随伴をはなから拒絶している。私が氏に感じていた畏怖とは、或いはこの拒絶からくる違和感こそが、その正体だったのかも知れない。
(「随伴を拒絶する私小説」)

 共感であれ、拒絶であれ、まずは西村氏も車谷氏も読んでみたい。

随筆集 一私小説書きの弁

随筆集 一私小説書きの弁