不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

し続ける事


 アキレスと亀鑑賞。出演、ビートたけし樋口可南子、柳憂怜、麻生久美子中尾彬伊武雅刀大杉漣円城寺あや、吉岡澪皇、徳永えり大森南朋。そして監督・脚本・編集、今回は挿入画までやった、北野武
 さて、どう書こうか。何も書けない気もする。
 夫婦や夫婦愛の物語のように宣伝されているが、大間違い。これは「表現」と「表現者」の物語。
 『TAKESHIS'』『監督・ばんざい!』と、いささか自慰的な映画を作ってきたが、この『アキレスと亀』を見て、この三作は、表現者としての自己を投影させた三部作、「表現」とは何なのかをとらえた三部作なのだとよくわかった。よくぞここまで達観できるものだ。
 物語はいたって簡単だ。売れない画家が、何があっても、死ぬまで、絵を描き続ける。
 継続は力だ。すべての表現は、続ける事が大前提で、それは才能に直結している。
 じゃあ、継続できれば才能があるかといえば、そうでもない。
 才能がないけど、続けたい表現者はどうすればいいのか。
 意を決してやめるか。それでも表現し続けるか。
 どちらにしても、一歩踏み出すかどうか、そう、「アキレスと亀」なのだ。
 芸術や表現とは、危険で甘美な麻薬。「表現」にとりつかれた者、「表現者」は「表現」以外の選択肢がない。
 死んでから認められた表現者がいる。ヘンリー・ダーガーなんて、絵を描いていた事すら誰も知らなかった。彼らは何を思っていたんだろう。幸せだったのだろうか。認められなくて不幸せだったのか。
 主人公・真知寿には理解する者がいた。それは妻。だけど、妻が理解していたのは真知寿の芸術の価値ではなく、真知寿が「表現者」であり、「表現」以外の選択肢を持ち合わせていない事だった。実は、「表現」への理解とは違う、「表現者」への理解とは、こういう事なんじゃないだろうか。
 理解した妻もまた「表現」の麻薬を吸っていた。はっきり言えば、彼らは“狂って”いたのだろう。だけど、彼らはそれしかない。幸せなのかどうかも、俺にはわからない。
 見終わって、温かな不安に包まれた。何かを感じずにはいられない。どうしようもない気持ちにさせられた。