不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

車が走り、魚が泳ぎ、津波が起きて、少女が駆け抜ける


 崖の上のポニョ鑑賞。監督・原作・脚本は宮崎駿、音楽は久石譲、そしてプロデューサーは鈴木敏夫というゴールデントリオ。声の出演、山口智子奈良柚莉愛土井洋輝長嶋一茂所ジョージ。ほとんどの声はよかったけど、所ジョージだけはどうかと思う。
 見たばかりで混乱しているけど、とりあえず思った事を。
 純粋に楽しかった。アニメーションがぐいぐい動いていくのを見ていて愉快な気分になるのは、今やジブリくらいかもしれん。時代に逆らうような手描きセル。CG嫌いな俺としては大賛成であり、やはり手描きで丹念描いていくからこその暖かみであったり、ダイナミックさというのは存在するのだ。
 リアルさを追及しながらも、そんなものは無視する部分があったり、そのバランス感覚が宮崎駿は抜群で、見ていて飽きない。人間の動きだけはなめらか過ぎて(?)、若干違和感があったけど。
 『ポニョ』は言うまでもなく『魔女の宅急便』『となりのトトロ』の延長線上にある。ただ、これまでは「ある地方の、ある事件(ある伝説)」という一部を描く事で世界を描いていたわけだが、『ポニョ』は最初から大風呂敷を広げて世界を描いている。
 その大風呂敷、信じられないほど前向きだ。世界と宮崎自身が閉塞したからこその現状打破。大風呂敷に、無垢な子供達を主人公にすえ、信じる事、希望を持つ事、誰かに好意を抱く事をまっすぐに、純粋すぎて「愛情」とか「友情」という言葉も突き放すほどまっすぐに描いている。
 間違いないのは、このアニメ作品が子供のための作品だという事だ。今の子供がどれくらいアニメを見ているのかわからないが、多分そんなに見ていないんじゃないだろうか。宮崎駿がそこに危機感を感じ取ったのかどうかは知らんが、子供が楽しめるように作ったように見えた。
 しかし、残念ながら素直な子供向けではない。宮崎駿ジブリが「大人でも楽しめる」「老若男女、万人が楽しめる」映画を作る事を周囲が期待しており、それが足枷になってしまった。そして、宮崎自身の変化もあるだろう。もっと、大人の事なんか捨て去って、純粋な子供向け映画にしてしまえばよかった。
 だからだろうか、「おいおい、あれはどうなったんだよ」と突っ込みたい個所はたくさんあった。いくらなんでも投げっぱなしではないのかと。
 ただ、あえて説明を排除し、伏線や意味ありげな会話も作っておきながら回収せず、まさに津波のごとく怒涛のシークエンスで突っ切っていったのも、それも間違っていない。大人も子供も、自らの想像力を掻き立てられ、自らの物語を創造できる。
 多くの人が思っている事だが、宮崎駿は『もののけ姫』で事実上引退した。『千と千尋の神隠し』も『ハウルの動く城』も、良い作品ではあるものの、その後には何も残されていない。マンネリ、と言ってもいい。そのマンネリに加え、“澄んだニヒリスト”宮崎駿の世界に対する絶望、それに伴う希望が入り混じり、散文詩的展開と結末になっている。にも関わらず、描いているものはとんでもなく単純だったりするので、宮崎作品を見ていると、いろいろな考えが生まれてくる。
 この物語は寓話である。寓話的物語ではなく寓話。後だしじゃんけんではあるが、宮崎駿が次の作品を「人間になりたい金魚の女の子の話」と言った時、抽象的な寓話になると思っていた。散文詩的展開と結末が、最高潮に達した作品と言ってよい。
 だからこそ、「現実(リアル)」をはるか彼方に置いていき、イメージをぶっ飛ばしていく作品が出来上がったのだ。
 と、こねくり回して書いてみたけど、よくわからんというのが本音。どう解釈すればいいんだろう。何が描かれていたのか、何を描きたかったのか。何で人面魚で、何で海なのか。いくらでも考える事ができそう。男の子とポニョの関係は何なのか、愛? 友情? 無垢な存在同志の結びつきに、なぜ「世界の破滅(及び存続)」が直結しているのか。そもそも「ポニョ」の存在が何なのかがわからん。
 きっと賛否両論で、徹底的にこけ下ろす人はいると思う。俺も批判したい部分はある。だけど、たとえば金魚をこうやって描いたり、荒れ狂う波の上を少女が失踪したり、うまそうなサンドイッチやスープが出てきたり、抜けるような青空、思わず飛び込みたくなる海……そういった、物語だのテーマだのより先にある、大前提であるビジュアル面で、宮崎駿を凌駕する才能が、果たして他にいるのか。あの映像を超えるものは、なかなかないぞ。ビジュアル面の最強度も、着目すべき。本当に、何でこんな映像を思い浮かべる事ができるんだろう。
 時間が経ち、考えれば考えるほど深くなっていく。いやはや、宮崎駿はとんでもない作品を作りだしたんじゃなかろうか。また何か思いついたら書いていこう。