内田樹『村上春樹にご用心』読了。
生きている作家の作家論は殆ど読まないが、内田樹の村上春樹論と聞けば気になるところ。読んでみると、一本通った村上春樹論ではなく、ブログなどに書いた村上春樹について(が出てくる)記事を集めたもの。そのせいか、いろいろな角度から村上春樹を見ているのではなく、いろいろな角度である事を見ていたら村上春樹が出てきた、といった感じ。だから、作家論ではない。
村上春樹は好きだ。相当、好きだ。いわゆるハルキストといった人達(の大部分)が気に喰わない。ともかく、俺の読書遍歴を振り返れば、村上春樹は重要な位置にいる。にも関わらず、彼について語るのは避けている。うまく語れないし、整理もできていない。
村上春樹はまず一気に最後まで書いて、それをもう一度頭から全部書き直すそうである。
同一の書き手が同一の文章を二度書き直すと、そこには「一人でボーカルをオーバーダビングした」ときのようなわずかな「ずれ」が生じる。同一人物でありながら、二人の書き手のあいだに、呼吸にわずかな遅速の差があり、ピッチのずれがあり、それが「倍音」を作り出す。
この「倍音」が読者にとっては、「とりつく島」なのである。
村上春樹の書く世界や物語は、俺含む多くの読者の世界や物語と非常に近い。しかし、間違いなく「ずれ」があり、その「ずれ」は決定的なものである。誰もが感じている、わずかで確実な「ずれ」。だからこそ、彼の作品を読むが、語りにくい。
私たちが世界のすべての人々と「共有」しているものは、「共有されている」ものではなく、実は「共に欠いているもの」である。その逆説に批評家たちは気づかなかった。
村上春樹は「私が知り、経験できるものなら、他者もまた知り、経験することができる」ことを証明したせいで世界性を獲得したのではない。「私が知らず、経験できないものは、他者もまた知り、経験することができない」ということを、ほとんどそれだけを語ったことによって世界性を獲得したのである。
私たちが「共に欠いているもの」とは何か?
それは「存在しないもの」であるにもかかわらず私たち生者のふるまいや判断のひとつひとつに深くかかわってくるもの、端的に言えば「死者たちの切迫」という欠性的なリアリティである。
何かを所有する事を共有するのではない。所有できないという事実を共有している。つまりは、「何かが欠けている」という事態しか共有できない。そして、村上春樹はそれを描き出すからこそ、我々は村上春樹を読む。
ここまで納得できた村上春樹論は今までなかった*1。
俺は村上春樹の小説を読むと、いつも何かをしたくなる。小説を書きたくなったり、料理をしたくなったり、飲めないビールを飲みたくなったり、歩きたくなったり、誰かと話したくなったり。こういう気持ちにさせる小説家は、他にいない。

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*1:と思う。他のを読んでいないので。