不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

人間こそが神の奇跡

 蜷川幸雄演出『ひばり』を見に行く。原作はジャン・アヌイ。ひばりは美空ひばりかと思ったが、鳥のひばりだった。何でこんな的外れな勘違いをしたかというと、上司が連れにドタキャンされたので急遽リザーバーとして俺が抜擢されたのだ。
 これまでこの戯曲は劇団四季浅利慶太の演出で上演してきたそうだ。そちらも見た事がある上司曰く「全然違う」という。そうなると、浅利慶太演出も見たくなる。
 舞台は100年戦争下、15世紀のフランス。そう、ジャンヌ・ダルクの話である。演じるは松たか子。あら、縁がありますわね。周りがその時代の服装をしている中、松たか子だけフードのついたぼろいジャージだった。勿論、それにも意味がある。
 3時間以上と長い芝居だった。膨大なセリフが中心となり、蜷川演出にしてはオーソドックス、地味なものだ。前半(の特に前半)は、固いセリフで少々疲れてしまったが、休憩を挟み後半からぐっと良くなった。役者や物語のテンションはそれほど変わっていないのに、盛り上がっていった。
 松たか子は『メタルマクベス』のマクベス夫人とは打って変わって、どこまでも直線的で“純”なジャンヌを好演。“言葉”に振り回されている感はあったが、それが逆にジャンヌの要素となっていて良かった。周りの役者陣も素晴らしく、演技の面で言えば安心して見ていられた。
 異端審問裁判でジャンヌが自らの半生を演じる、劇中劇である。基本的に我々が見ているのは法廷であり、中央舞台の周りにはベンチがあり、登場人物が傍聴人、陪審員の様に座っている。ジャンヌの言葉に反応したり、野次を飛ばしたり、時には劇中劇の中に登場もする。更に、観客席の照明もつけたままで、あたかも我々観客さえも傍聴人、陪審員の一部となっていた。それにより、悲劇を感情移入し過ぎずに見る事ができた。感情移入するには、悲し過ぎる話だ。
 知っての通り、結果はジャンヌ・ダルクの火炙りである。結末がわかっているだけに、あくまでも己を、もとい「神(の声)」を信じ抜くジャンヌの姿は痛々しく、同時に爽やかでもあり、美しくもあった。ラストシーンは、火炙りではなく、唐突とも思える場面で終わる。蜷川がハッピーエンドにしたかったのかと一瞬思ったが、むしろその場面を最後にするからこそ、ジャンヌの物語がとても切ないものとなった。
 それにしても、耳に残るのは「神(様)」という言葉だ。俺は徹底した無宗教*1なので余計そうなのかもしれない。ジャンヌが本当に「神の声」を聞いたのか。全くの気のせいだったのか。「GOD」というたった一言が、一人の少女を天使にもしたし、魔女にもした。その一神教の“怖さ”を、ジャンヌ・ダルクの物語には感じる。
 それでも、ジャンヌは世界を救いたかった、そして救った。*2最後に彼女は何を思ったのか。キリスト教徒でもない俺、日本人には分かりえないのかもしれないが、この劇でほんの少しだけ見えた気がした。あくまでも、気、だが。
 まるで宗教的儀式の一つの様な芝居だった。とても痛々しく、重い。切ない澄んだ青い空をイメージさせた。

*1:無神論ではない。俺は多神論である。

*2:近代以降は、フランスもイギリスも救ったという見解が主。