不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

苔が生えるか、転がるか

 星野博美『転がる香港に苔は生えない』読了。大宅壮一ノンフィクション賞受賞作なのに絶版だった。また古本屋で探すのかと思った矢先、文庫化された。こういう縁ってあるんだよな。昨日、テレビで「ベケット特集」を見たからか、古本屋で『ユリイカ』の「ベケット特集」を見つけた。勿論、購入。
 1997年7月1日、香港返還。その前後一年間、現地香港に住んで“返還”を体験した著者の記録。取材をしたわけではなく、日々の事、出会った人々の事が書かれており、ノンフィクション小説というより、日記のように読めた。そのせいか、かなり個人的であるし、自分の感覚でまとめてしまっている部分がある。だから“返還”を見事に描いているわけではない。ただ、個人的だからこそ、深く思考し、人々と話し、皮膚感覚の言葉で書かれているのも確か。分厚い本だが、あっという間に読めた。
 「香港の悪い面ばかり強調されている」「負の部分をクローズアップしすぎ」という評を読んだ。俺はそんな事はないと思う。確かに香港に住んでいる人間の、「返還」という国同士のやり取りで、戸惑い、迷い、彷徨う人間たちが主役になっていて、暗い話が多いのだけど、その人たちの中には力があると感じた。それでもたくましく生きていこうとする人々。“負”を書く事により、香港人の強さが見える。
 最後にタイトルの意味がわかった。苔とは“君が代”の《君が代は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔の生すまで》の苔である。現代語に訳せば《君が代は、千年も八千年も、細石が大きな岩になって、それにさらに苔が生えるほどまで、長く続きますように》。最後に著者は言う。

 そんな彼らのしなやかな生きざまを見ていると、(略)時には攻撃的に硬直していく私たち日本人は、やはり千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで変わらない安定を望む人々なのだと思った。

 今我々に必要なのは、誇りではなく、多様性だと私は思う。(略)私たちは本当に、深く眠っている場合ではない。苔など生やしている場合ではない。

 私たちはどこへ向かおうとしているのか。考えることにも飽きて、眠ったふりをして苔むそうとしているのか。日本に戻ってきた以上、私のすべきことは日本の行方を見届けることだろう。

 著者の言う事は、確かに一理ある。日本と香港を比べれば、そう思うだろう。だけど、俺にはもう少し違う風に見えた。
 香港は苔をむす場合じゃなかったし、苔がむさない国なのだ。転がり続け、削られ続け、消えてしまうかもしれない。
 そして日本は、苔をむさないといけない国でありながら、現在は苔すらむせない国となっている気がする。何もできない国。眠ったまま日本の上にあるのは“虚無”である。この先、苔むすのか転がるのか。なんにせよ、すべき事は《日本の行方を見届けること》ではないんじゃないだろうか。見届ける事は去り行く者のする事であり、日本で生き続けるのなら、更に言えば日本人であり続けるのなら、具体的に何をすべきかなんて言えないけど、傍観者でいるわけにはいかない。ここからは国家論になりそうなんで、それはまた違う機会に。
 この最後の部分はあくまで著者個人の思いで、正直なくてもよかったとすら思う。まとめとして、日本と香港を比べ著者は書いたわけだが、ここはこの作品の本質ではない。本質は、著者もいつも思い出すという、元密航者の男のセリフだ。

「ここは最低だ。でも俺にはここが似合っている」

 何故か俺の胸にも残った。その理由はわからない。
 どっちらけな感想になってしまったなぁ。修行が足りんわ。

転がる香港に苔は生えない (文春文庫)

転がる香港に苔は生えない (文春文庫)