不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

一月二八日、島の精霊

 アップリンクができてから映画館は最寄りの吉祥寺の三館でだいたい網羅できて、これらで上映されていない作品も立川の二館があるのでこれでだいたい網羅できてしまう、もう都心の方に行く事がなくなってしまった。移動時間やめったに行かない街に行くのも楽しいけれど、それが億劫になってしまった私は中年。今日も吉祥寺オデヲンで、マーティン・マクドナー監督『イニシェリン島の精霊』

 「嫌うのは勝手だが、相手の感情や尊厳を傷つける権利を得たわけではないだろう」とコルムに抱いた憤りに近い感情をほぼ全ての人物に抱いてしまう、「悲しい本は悲しくなる」から読まない全てが他人事の人々による、身勝手な、おかしくて悲しい人間の悲劇の映画。楽園ではないけどどこかへ行ける事を選べる大人と、人から拒絶され好いていた人まで変わってしまってもうどこにも行けないと悟った子供との選択の違いに、また絶望感を抱かせる(子供がそれを「選んだ」かどうかはわからないけれど)。これ見よがしに出てくる十字架やロバや馬の視線など、おそらく聖書を知っていればもう少し物語を理解できたかも。聖職者に「神が気にすると思うか?」と軽んじられるその死だけが、ひたすら重くそこにあり続ける。

 喫茶店でカミさんと感想戦を行ってから、食材を買って帰宅。仕事の資料映像を見始めるも途中で寝てしまう、もう一回見るのもなんだなぁ。夕飯は鍋。夜は『新選組!』の第五回と六回を続けて見る、試衛館にメンバーが集まり始める。

本を売って、また買って

 カミさんがそこそこの量の本を売るため古本屋に来てもらう事になったので私も出す事にしたのはいいが、ちょうど取りに来るのが忙しい日だったもので、来るずっと前ではやる気が出ない、直前だったら体力気力がない、その結果中途半端な量しか出せなかった。多くは文芸誌で、あとついでにと漫画も出した。その中にはかつて愛読していたものの、もう読まなくなった漫画家のものがあった。ずいぶん前から売ってしまおうかと悩んでいてこのたびついに売りに出した。売れっ子なので読みたくなったら手に入るだろう、そもそも持っていても読まなかったし、こうして表に出してきても読む気にならなかったのだからここまでだ。その漫画家は西原理恵子だ。相当初期からのファンだと自負しているが、『毎日かあさん』で鴨ちゃんが亡くなったあたりから何となく遠ざかってしまった。彼女も変わっただろうし私も変わったのだ。いつかまた読みたくなる時が来るかもしれない、それまでは。古本を売ってカミさんは「これでまた本が買える」と言っていて、せっかく部屋がスッキリしたのにそれでは本末転倒ではないかと思うもその気持ちはわかるし、二人とも売らなくても買っていたし、まぁいいかと黙っていた。二人で暮らす事になって、これで買う本の数が減るかなと思っていたら、お互いに趣味が全く違ううえに自分が買う罪悪感を消すためか相手に買うようけしかけるのでドンドン増えていった、いまもなお増量中。本のために家賃を払っているようなものである。

お湯と文明

 朝起きたら水は出るが湯が出なかった。一緒くたの水道管ではなく分かれているんだから、こっちだけ凍る可能性もあるんだった。管にタオルを巻いてぬるま湯をかけてみたがなかなか溶けず、時間も少ないので諦めて電子レンジで蒸しタオルを作って、それで顔を洗い寝癖を治した。文明の利器がだめになっても、別の文明の利器と知恵で乗り越えた、簡単だし気持ちよかったから今後これでもいい気がする。だが結局はそれらも電気がなくては何も動かない、寒さに対抗するのも電気がなければ無理だ、電気こそが大事だ、文明は電気の上で成り立っている、今月の電気代はまだ見ていない。昼頃に「湯が出たよ」とカミさんからメールが来た。

一度に二人亡くなった気分

 自身の筆はもちろん、北上次郎大森望との対談は、本の趣味は合わないけれどいつも対談それ自体を楽しく読んでいました。そして日記書きとして、目黒考二笹塚日記 ご隠居篇』に寄せられた鏡明氏の一文を思い出しました。

 日記という形は、時代だったり、もっと日常的な日々に、極めて近いものだと思われそうだが、私にとっては、常に、今、この一日に近いもののように思える。それは記録であるよりも、すぐに消えていくものであるように思えるのだ。目黒さんが、ふっと現われて、去っていくという感じがある。もう何年も会ってないのだけれど、つい、さっき話したような気分になるわけだ。
 そうか、やめちゃうんだ。何だか、ものすごく、会って話したくなってきた。

寒波

 最強寒波が来るそうである、急な温度低下に気圧の上がり下がりで身体が軋んでいる気がする。最強といった大げさとも言える天気の表現はここ数年で増えたように思う、今回クラスの寒波は十年前にもあったらしいがその時はなんて表現していたのだろう。異常気象というのは結構過去にもあったりして、そのたびに「前にもあったのならそんなに異常でもないのではないか」とつい思ってしまうが、やはり現在の地球は異常気象であちこちでおかしな事が起こっていて大変だと言う一方で、地球の単位は何億年でそこからすると現在の変化は微々たるものだから云々カンヌンという説も聞く。まぁそれはそうなのだろうが人間は生きても百年ほどの間にできるだけの事はした方がいいのではないかと思うし、億年単位で物を言われてもだからといって明日の寒さは変わらない。会社を休みたいがアポイントはあるわ会議はあるわでむしろ忙しいのは何なのか。ベッドに引きこもっていたい。

名湯の効用

 バスクリンの「日本の名湯」シリーズを箱で買い、昨日は草津、今日は箱根で、明日は下呂と楽しんでいる。温泉は水質よりもシチュエーションなのでこれで温泉気分とはならないまでも、なかなかいい入浴である。効能を見るとどれもこれもほぼ神経症冷え性、肌荒れ、ひびわれ、痔に効用があると書かれており、毎日違うところのものであれ同じ効用なのだから入っているうちに肌がピカピカになり冷え性も治るはずだが、相変わらずカミさんの手足は冷たいまま、どうなっているのか。以前、温泉は身体に本当にいいのかという問いに対し、医者が「いい。そもそも温める事が身体にいい。さらに温泉が出るのは僻地なので遠出で旅行になって気分転換になるし、観光地では何かと歩くので運動になり、名物を食べるので食欲も増す。総合的に見て温泉は身体にいい」と答えたという話をネットで見た。本当に医者が言ったかどうかはともかく、この理屈は頷けるものがあった。肺炎もおさまり湯に浸かれるようになったのだから、改めて健康回復のために温泉に行きたい。

一月二二日、珈琲豆

 珈琲豆がなくなりそうなので買いに行く。前に買ったのは先月の二十四日のはずで、三種類二百グラムずつ買ってだいたい四千円を一ヶ月とちょっとで使い切る事になる。カフェオレにしてカミさんと自分の分を朝夜二杯ずつで計四杯、飲まない時もあるから仮に二十日間として八十杯。外のカフェで飲むのなら一杯四百円として三万二千円。年末年始は家にいる時間が長いのでいつもより多めに飲んでいるだろうから豆を買うサイクルは通常はもう少し長いだろうし、改めて計算すると家だとプラス牛乳代とガス代と手間がかかるとはいえお得だ。焙煎の間は別の店でコーヒーを飲む。豆をピックアップしたら、ぶらぶら散歩しながら帰宅。夕飯を喰い、早速買ってきた豆でカフェオレ。『どうする家康』を見てから夜の散歩に出て、『どうする家康』をどうしたらいいのかをカミさんと話しながら歩く。