不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

ジョーカー/見えているものは見たいもの

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 「政治的な事に関心はない」とアーサーは言った、嘘ではない、本当だろう、確かに彼は政治のあれこれによって追い込まれていた、だが社会や政治に対して恨み節を言った事はなかった。彼はどこまでも自分の事にしか興味がなかった、それが教養があるかないか、いいかどうかは別にして。アーサーはみんなを笑わせて喜ばせたかった、だがそのみんなとは誰なのだろう、彼はみんなが見えていたのか。

 笑わせたかったけど笑われた、笑いたくなかったけど笑ってしまった、喜ばせたかったけど喜んでくれなかった、愛されたかったけど愛されなかった、愛したかったけど愛せなかった、殺してほしかったけど殺してしまった(アーサーはボコボコにされる時は無抵抗だった)、あの場で自殺するつもりだったけどできずにあいつを殺してしまった、言いたくなかったけど言うしかなかった、「カーニバル」(彼のピエロ名)と呼ばれたかったけど「ジョーカー」と呼ばれた、撃つしかなかった、最初から最後まで自分が求めていたものは手に入らなかった。

 書きながらふと思ったのだが、もしかしてアーサーは「ジョーカー」にもなれなかったのではないか。彼はあの場で立ち上がって喝采を浴びたものの、直後に逮捕され、刑務所(精神病院?)に入って、まぁああいう描写はあったものの、それで彼のあれこれは終わりだったのでは。あのカオスの中で生まれたものは「ジョーカー」その人ではなく、「ジョーカーの種」でしかなかったのだ。考えてみれば、仮にこの映画をジョーカーそしてバットマンの前日譚とするとブルース・ウェインとの年齢差があまりにあって、ブルースがバットマンとして覚醒した時にはジョーカー=アーサーはもう老年、とても対峙する事はできないだろう。そうなると、あの混乱の中で「ジョーカー的なる者」=アーサーを見て熱狂した群衆の中から、アーサーの思想(などと言うほどのものなのかはわからないけど)を受け継いだ本当の「ジョーカー」が生まれる、と考えた方が筋が通る気がする。いくら振り切れたからといって、やさしいけど何もできなかったアーサーに「ジョーカー」的な振る舞いができるとはとても思えない、バットマンに執着しそうにない。そういう意味で本作は確かにバットマンの「ジョーカー」の誕生物語と言えるのかもしれない。

 ではアーサーは何だったのだ。「ジョーカー」にも結局なれなかった男、という事になってしまうではないか。人生は近くで見れば悲劇だが遠くから見れば喜劇だと言ったのはチャールズ・チャップリンだが、どこから見ても悲劇だ。何で私はこんな悲しい話を見なきゃいけないのだろう、この映画を見て社会がどうの、触発されてどうのというのは、「誰も俺を見ていない」というアーサーの嘆きを見ていない。アーサーが冒頭、唯一見せた青い涙を思い出して胸を打つ。

 だけど、とさらに思う。自分が存在している事は間違いだったかもしれないと思っていたけど、どうやら世界の方が間違っているらしいと気づいた男が語る話は真実なのか? カメラはアーサーがいる場所や見るものしか映さない。ある事だけは妄想だと映し出すけど、他の全てが現実だとわかる者はいない。人は見たいものだけを見る、あなたが見た『ジョーカー』はあなたが見たかったものだ、というのは安直すぎる結論か、そうすると私が見たかったのは悲劇だったのだろうか。?が浮かんでは消えていく、とても「ジョーカー」的な映画だった、良くも悪くも。*1

*1:追記:書いてから検索したら、俺はぼんやりした感想だったが、同じ意味の事をもっとビシッと書いている方がいました。 感想『ジョーカー』 実はあの場でジョーカーは生まれていなかったとしたら - ジゴワットレポート