不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

つけびの村/煙見て噂ついばむ小鳥ども

 noteでの連載というより存在を知った時にはすでに書籍化が決まっていたので(だいぶ遅い)、改めて本になってから手に取った高橋ユキ『つけびの村  噂が5人を殺したのか? 』(晶文社、いざ読み出したら一気読み、メチャおもしろい。「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」で知られる山口連続放火殺人事件のノンフィクションで、某ノンフィクション賞に応募したものの落選、出版社に持ち込んでも書籍化されなかったので、仕方なくnoteで有料連載を始めたら評判になり、それをもってこのたび書籍化されたという一冊。何故か帯文が藤原ヒロシ

 TwitterTumblrだかで、都会では隣人がどんな人かも知らない不明・不確実性がありそれが恐怖になり得るけれど、田舎では隣人がとんな人か誰もがわかっていて全てを知られている(そのため将来像までも見えてしまう)確実性があり、それが不安であり恐怖になるという一文を読んだ事があって、それを思い出した。

 取材過程が細かく書かれているのもよかった。そして事件のノンフィクションであると同時に、現在のノンフィクションのありようや、「精神疾患」への疑義も書かれており、奥深い。怖い、うわさが、無意識の悪意が、消費されて忘れていく(忘れてしまう)ことが。昨今の「消費」(≒忘却)のスピードにも思いをはせる。一方で、消費されていくにもかかわらず、ずっと忘れられずに残っていくという事にも(特にネットでは)。様々な意味でスピードが速すぎる世界と社会、あまりいい事ではない。と同時に、ノンフィクションを読むたびに思い出す、『探偵物語』の工藤ちゃんのセリフ「いつも事実が真実語っているとは限らないんだよな」と、今回もまた思い出したのだった。俺たちは真実なんか見えやしないのだ。

 確かにおもしろく読んだのだが、これが雑誌連載しかり書籍にならなかったのか不思議だ、とは思えずに、noteの分だけを読む限り「このままでは難しいだろうなぁ」と思った。その理由を明確に書ければいいのだが、何とも言葉にしにくい。あえて言うなら踏み込みが足りない、うわさや村の内にもう少し踏み込んでみなければ、いくらおもしろくとも結局は外観で終わってしまっているのではないか。たとえ真実が見えなくとも、近づく事には、意味があるはずだろう。

つけびの村  噂が5人を殺したのか?

つけびの村  噂が5人を殺したのか?