不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

2018年9月下旬の日記

 一年前の今日、カミさんが病気で倒れて即日入院をした。そこから年明けまでの三ヵ月はとにかくしんどくて、自分の人生でもっとも辛い時期だった、死にたくなるような悩みはないし、大きな難題を抱えているのでもないし、そもそも病気になったのは俺ではないのだけれど、公私の事情から少しずつ己の心身が蝕まれていくのが目の前で見えているのに止められない、そんな心境で過ごしていたのだ。この時の事や心境を自分なりに記録、備忘録として書いておいた方がいいな──そう思って、カミさん入院中の手書き日記を元にポメラに認めておいたのが今年の一月下旬だったのだが、実はその後の三ヵ月が年末以上にしんどい、今でもちょっと思い出したくないくらい、心身ともにヤバイ状態になるとは書いているこの時は露とも思わなかった。以下、そのポメラにあったデータに手を加えたものである。特にヤマもオチも教訓もないけれど、発病から一年の節目なので何となく公開。

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 カミさん(以下kj)が「ものが二重に見える」と言い出した時、最初は仕事のしすぎによる目の疲れだと思っていたが、改善しそうな気配がないため心配になってきて、本人も言っていたが脳の病気ではないかと思った。まず眼科に行き、次の日に脳外科、神経外科に行き、この日は俺は修羅場の徹夜明けだった。前の日は目はともかく体調自体は普通だったし、当日すれ違いで家を出る時もkjは普通に「行ってきます」と言っていたので、検査から帰ってきたらもう歩けないほどグロッキーになっていたのには驚いた。一応その時点で脳の病気ではなく、神経の病気──この時にすでに病名がわかっていたかは忘れた──だと聞いたので、それで少し安心はした。それだけでもとりあえず安心してしまうほどだった。

 次の日に一緒に紹介された、ある程度近いK病院へ行く。呼んだタクシーに乗る時に、kjはもう一人では歩けないほどで、病院に着くやすぐに車椅子を借りて、俺が受付をし、どこに行けばいいかを聞き、車いすを押して大きな病院内を行ったり来たりしていた。何が起こっているのか、何を求められているか、何をすべきか、何ができるかをずっと考えていて、「いま」をずっと考える片隅で、「今後」どうなるんだろうと思っていた。前の病院で「即日入院になるでしょう」とは聞いていたので、一応それなりの用意していったらやっぱりそうなった。

 この時、手書き日記を書いていたのでそれを引用。

9月19日
 kj入院、△△(病名)とのことだが、まだ検査の結果待ち。どちらにしても大病と言ってよい。少なくとも一~二週間は入院の予定。その間久し振りの一人暮らしだが、ずっと一人とはやはり違う。しばらく手書きでその日のことを書いた方がいいかもしれない。記録として。

 結果的に、日記は8日間しか続かなかった。書くのが、思い出すのが、考えるのがしんどくなってしまったのだ。19日は面会時間が終わる20時ギリギリまでいたはずだ。kjが検査をしている間に、担当医のA先生から病気の説明があった、何百万人に一人の中でも20%の人がなるような難病奇病であること、命に別状はないこと、治るけど後遺症の可能性はあること、K病院がその病気の研究を行っていることなどを聞いた、と記憶している。その時どう考えていたのか、思い出せない。

 この日にkjとも仲の良い元先輩のSさんから電話があって、その時は出られず落ち着いてから折り返した、と記憶していたが日記では「翌日にSさんと話した」とあるのでこの時ではなかったか、記憶が混濁している。その他、誰かに電話したんだったか、誰にもしていないんだったかも覚えていない。バスに乗って駅前に出て、駅ビルにあるC&Cカレーで遅い夕飯をとったことは覚えている。何を食べたんだったか。食欲はなく、味もあまりしなかった。その後の記憶は、ない。

 翌日の日記から。

9月20日
 散髪の後、病院へ。投薬中。kjが言うには「悪化を防ぐ薬」らしい。それでも効いたのか、昨日よりはよさそう。まだ食事はできず、水を少しだけ飲んだ。笑顔もあったのでかなりホッとした。
 朝、Mさん(別部署の上司)からtel有。MUさん(Mさんの友人)が○○病(kjの病気に似た病気)だった、一週間で治ったと教えてくれた、というか前にもこの話をした事があった。体力が違うが、少し安心の材料になった。Sさんともtel。みんな心配してくれる。有り難い。

 Mさんとの電話は覚えていない。この日、他の記憶もない。散髪に行ったんだっけ、この時何を思っていたのだろう。担当美容師にkj病気を告げたのは年末で、この時は話さなかった。話せなかった、が正しいかも。

9月21日
 会社早退(15:30)して病院へ。ベッドをのぞけば、そこそこ回復したkjが。今日は会話がちゃんとできたのでよかった。夕飯では梨、味噌汁少し、お茶、ウイダー・イン・ゼリー少し食べていたので安心する。18時30分まで。
 帰り道、安心したせいか疲れが一気に出る。俺が倒れたら、それこそ大変だ。気をつけんと……。

 早退しているが、上司には入院の事をいつ話したのだろう。この前日に電話したのか、当日に直接話したのか。ただ、上司から「ご両親に早く話した方がいい」と言われて、ハッとして病院から電話したのは覚えている。入院してから三日目と遅くなってしまって申し訳なかったけれど、何をどう言えばいいのかわからなかった、たぶん俺も混乱したし、当惑していたのだろう。ウイダー・イン・ゼリーは病院内のコンビニ(ローソン)で買ってきたものだろう。コンビニの行ったり来たりをよくしたものだ。18時30分に帰っているので、たぶんこの日によく行く中華料理屋で一人で飯を食ったのではないか、一人であそこにいったのは初めてで印象に残っている、何を喰ったのかは覚えていない。一日一日回復していて、一日一日安心している。そう書かないと、本当に安心できなかったような気がする。kjがいないから、仕方ないと猫がなついてきた。腹の上に乗ってきた。

9月22日
 kj両親来る。会話ができたので、それなりに安心したようだ。食欲も少しあり。目の回復はまだ。どれくらいかかるかなぁ……。朝、夜にkjからメールが来るようになったので俺もだいぶ安心した。メール一通でずいぶん違うものだ。
 夜、気分転換にAとメシ。有り難う。

 また安心している。メール一通の重さ。

9月23日
 姉一家とパスタ。その後、久し振りに姉と二人で行動。いろいろ話す。姉の(kjの)見舞いはまた今度。今日はkj、起き上がっていた。髪を洗ってもらっていた。少しづつだが回復だ

 姉一家が近所まで来て、昼飯でパスタを喰って……その後どうしたんだっけ。姉が行きたかった店を回ったのか。その後一人で病院へ。

9月24日
 映画一本(スカイスクレイバー)を見てから病院。物が食べられるようになったようで、また何より。仕事の引き継ぎなどを聞く。17時頃、辞する。明日は義母が行くそうだ。

9月25日
 今日は見舞い行かず。夜にtel。一人でシャワーするまで回復したらしい、よかった。ただ視神経の方がまだなのでそちらは心配なママ。今後どうなるか。
 心身疲れていて考えられないのに考えて、SNSで過剰になる感情と言葉にうんざりしてきた。

 たぶん『新潮45』の件だろう。この後さらにうんざりしていく、疲れていく。SNSから距離をとろうと思い、いまに至る(やっていて言うのもなんだが)。

9月26日
 見舞いへ。かなり回復。リハビリも快調らしい。目だけは時間がかかりそう。ミーティングルームで一時間ほど。Sさんに経過報告。
 本を読んでいない、次に何を読もうか、全くさだまらない。

 ここで手書き日記は終わっている。短い。もっと書けばよかったけれど、書けなかった。この後、仕事がグチャグチャになり、最悪の3ヶ月の中でももっとも辛い1ヶ月である10月が始まったのだ。10月はとにかくしんどかった。それはブログでも漏れていたのかどうかは、読んだ人しかわからないのだけれど、これが続いたら鬱になるとまではいかないが、少なくとも俺がおかしくなると思っていた。11月は覚えていない。後半に年末の臨時仕事が決まったことを知ったはず。12月は……。

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 ポメラはここまで。10月初めにkjは退院。神経の病気で身体は鈍くなっているし、目がおかしいので家の中でも心配なのは代わりない、これからどうなるのか不安だ、後遺症も気になる、だけど回復はしているので明るい気持ちを持つ事もできた。一方で俺はというと、書いた通り10月は辛いひと月だった、11月はよく覚えていない、12月を何とか乗り切れば年末年始で休んで、年明けから諸々好転していくだろうと思っていたが、好転どころか悪化していくので愕然としていた、たぶんあの時期俺はおかしかった、おかしくなっていた、死にたいとは思わなかったが消え去りたいとは思った、そのころの日記がどんな感じなのかは自分では読んでもよくわからない、ただそのおかしさがいまでも続いているような気はずっとしている。