不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

ジイさんと俺

 ジイさんの訃報で起きた。三週間くらい前に風呂場でコケて頭を打ち入院した、90過ぎている事を考えれば長くないかもとは思っていた。一方で頑健な人だからもつかもとも頭のどこかにあったけれど、そういう事になった。コケるまで食事もトイレも風呂も一人でできていて、入院の三週間で周囲の人間がいろいろと準備できてからの死去と考えると、お見事な去り際と言える。まぁ我がままな人だったらしく一緒に住んでいたバアさんは生活面で大変だったそうだから、そんな美しくもないのが本当のところなのだけど。94歳、まるっと昭和と平成を生きた事になる。

 俺はジイさんの事をほとんど知らない。名前は知っている、誕生日は忘れた、どんな仕事をしていたのかはうっすら知っている、趣味はたぶんゴルフ、好物は知らない、戦争に行ったのかも知らない、その他のパーソナリティは何も知らない。ジイさんはジイさんで、俺の事は息子(親父)から聞いているだろうけど、たぶんそんなに知らない、プロレスやカレーや映画が好きだなんて知らないだろう。

 かといってジイさんと冷え切った仲だったかというと、そうでもない。会いに行っていたし、顔を合わせれば笑顔で、普通に会話をした、二人っきりになっても話題がなくなって静かになっても別に気にならなかった。ジイさんも俺も、祖父で孫という関係以外にお互いに興味がなかったのかもしれない、それだけの関係、と書けば冷たく読めるが、それだけでも関係は関係で、俺たちの適切な距離がそれくらいだったのだ、たぶん。書きながら勝手にそう思っただけで、いまとなっては、いや、仮にいま生きていてもそんな事は絶対聞かないから、永遠にわからない。

 ジイさんの訃報を聞いてショックはないし、悲しさも寂しさもない。自分が薄情なのか冷たいのか仕方ないのかと思っていたけど、その後なんとなく落ち着かずにそわそわしていた。夜にライブに行く予定だったが後輩にチケットをあげた、明日の朝早いからという理由もあるが、やっぱり行く気分にならなかった。

 誰かが亡くなるたびに、俺は松尾スズキの《ほんとの供養は葬儀に参列して泣くことじゃないと思っている。彼女と俺の関係の記憶を自分の心の中の墓地のサイズにおさまるようデザインすることだと、思う。俺には宗教がないのでそうするしかない》という言葉を、俺の心の中の墓地に刻む。俺は明日の通夜だけ参席し、明後日の葬式には仕事があるので出ないつもりだったが、間接的にジイさんが「(姉と)龍に出てもらいたい」と言っていたと聞いた。本当かどうかは知らない。そういう事を言いそうな人なのかどうかすら知らないのだから。だけど、俺とジイさんの関係として、俺の中の墓地のサイズに収まるために、参席しようと思っている。