不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

夜の虹を架ける/聞こえてくるあの足踏み

 市瀬英俊『夜の虹を架ける 四天王プロレス「リングに捧げた過剰な純真」』(双葉社。何故、表紙のイラストが三沢をジャーマン・スープレックスで投げる川田なのだろうと、まず思った。おかしいと言いたいのではなく、他のレスラーでもなく、四人並べるのでもなく、何故この二人なのだろう、と不思議だったのだが、読み終わってみればよくわかる。逝ってしまった者(三沢光晴)、生き残った者(田上明小橋建太)、そして生き残ってしまった者(川田利明)の中で、一番レスラーとして人間として因縁のあった二人、永遠に追う者と追われる者となった二人。三沢亡き後、川田がプロレスをしなくなったのもむべなるかな。確かに四天王プロレスの本ではあるけれど、しかしこれは、三沢光晴川田利明の、そして三沢亡き後の川田の物語であり、馬場存命中に「これが全日本プロレスです」、そして亡くなった後に「これも、全日本プロレスです」と言ったのが川田だったのは、今にして思えば当然なのである。まぁ俺は川田はそんなに好きじゃなかったけど。

 二段組み800ページの大著、読み応え十分。写真も多めで、資料的な価値も高い。しかしノンフィクション本としては、雑誌連載のまとめでダブる記述があるのは仕方ないにせよ、いささか余談が多くて、まとまりが悪い。話は興味深いものの、『週刊プロレス』の舞台裏や記者エピソードはもう少し薄めでもよかったと思う。何より、筆者自ら仕掛け人になっていた馬場時代は描写が濃いのだが、馬場死去後の三沢体制で外れてからは、かなりあっさりしたものになってしまっているのは、これもまた仕方ないにせよ、少し残念だ。ただそれも、「馬場時代こそが全日本プロレスだった」と言い換えられるのかもしれない、良くも悪くも。

 改めて俯瞰してみれば、全く身内から信用されず、みながこの人についていっては駄目だとアントニオ猪木が思われて実際に排除されたからこそ、新陳代謝ができて復活した新日本プロレス、みながこの人についていこうと思ったからこそジャイアント馬場は偉大であり、偉大な人物の存在なくして団体は成り立たなくなった全日本プロレス(それは三沢光晴=NOAHにも言えるのかもしれない)。さらに《金も名誉も栄光も、全てを持っていたが故にプロレスをビジネスとして成功させたジャイアント馬場。何も持っていないからこそ、ビジネスを超えた、超えざるを得ないファンタジーを作り上げたアントニオ猪木*1なのに、ビジネスとして続かなかった全日、ビジネスとして盛りを迎えた新日という構図は皮肉といえば皮肉であり、しかしこれもプロレスだなと思う、団体運営すらも飲みこんでいく。

 それはともあれ、四天王プロレスである。語ろうと思えばいくらでも語れる、当たり前だ、四天王プロレスだぞ、ナメてんのか。プロレスという分野おいて、リング外には波も風もなく、どこまでもリング内で純粋にかつ健全に技術が進歩していったその極北その極致、いまもって他の誰も到達できていない果ての果て。大げさだと思う人は四天王プロレスを知らないだけだ。そして、そんな極北でさえも観客のために戦うレスラーの姿を見て、俺はもう感動しっぱなしだったのだ。これがプロレスだ、これが生きざまで死にざまだ、こんな感情になる瞬間が他にあるか。リングの上に滲み出てくる人間模様が君たちには見えるか。その人間模様が書かれているのが本書というわけである。お分かりいただけるだろうか。

 読んでいる間中、全部見たわけではないのに試合の風景が、一つひとつの技や仕草や表情が、レスラー一人ひとりの姿が浮かんでは消えていった。間違いなく俺は四天王プロレスを愛していた、いまも愛している、ああいう事になってもなおそう思う。危険すぎる技の応酬、お互いの意地と信頼、カウント2.9、その刹那に全てを賭けていたレスラーたちの姿を忘れない。もう感傷的にすぎるとは自分でもわかっている。だが仕方ない。誰かが言っていた、「記憶とは美しい宝物だ」と。俺は本書を読んで、この宝物を改めて眺めていたのだ。以上です。

夜の虹を架ける 四天王プロレス「リングに捧げた過剰な純真」

夜の虹を架ける 四天王プロレス「リングに捧げた過剰な純真」