不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

日記の虚実/日記の期待

 紀田順一郎『日記の虚実』(ちくま文庫。日記は書くのも読むのも好きなのだが、日記論というのはあまり読んだ事なく、先日古本屋で見つけた本書を何気なく読んでみたらこれがすこぶるおもしろい。葛原匂当という盲目の箏曲の名人から話が始まるので一瞬、誰だ知らんぞ、とっつきにくいかなと思ったがこの人からしておもしろい。以後、樋口一葉徳富蘆花永井荷風岸田劉生竹久夢二、野上彌生子、伊藤整(他)、そして古川ロッパといった面々の日記から、書いた本人と書かれた事、そして書かれていない事を丹念に読み込んでいく。

 末尾の「日記の研究」という章で、日記とは何か、特に日本人にとっては、という論を展開していき、それがいちいち興味深く、ふむふむとうなづきながら読んだ。これは名著ではないか。本書が出たのは1995年、元本にいたっては1988年である。言うまでもなく、ネットのブログ文化はない。まぁ現在のブログ(あるいはTwitter)が日記なのかというと疑問ではあるのだが、しかしそれらについてはどう見ているのか知りたいけれど、その後どこかで書いているだろうか。

 ところでその章にはこういう一節がある。

 人が日記をつけるようになるについては、必ず動機というものがある。…永続した日記には必ず相応の理由があるものだ。それは一口にいえば、自らの人生に何らかの展開があると予想される場合である。「展開」といえば、仕事や恋愛において明るい期待感が生じたような場合に限らず、死の床にある者が自己を見つめるための闘病日記をつけはじめるような場合でも、「展開」には相違あるまい。

 俺が日記をつけ出したのは大学生だった2001年からで、最初はノートに手書きだった。いま開いて読んでみると若書きで恥ずかしいのだが(同時に、いや、あまり変わっていない、という気もする)、初日に観劇の感想を書いていて、たぶん感想を書くのなら日記にしようと思い立ったのではないか。だが、自分の動機を、もっといえば期待している「展開」を探ってみようと何日か読んでみたが、わからなかった。中断もあったが18年、ネットでも手書きでも書き続けているけれど、いまだに自分が何故、しかも公にするものと、しないものとをわざわざ分けて、書き続けているのかわからない。わからないんだけど、俺の場合、書き続ける事が、期待している「展開」なのではないか、という気もするのだった。

日記の虚実 (ちくま文庫)

日記の虚実 (ちくま文庫)