不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

三沢光晴とレスラーの事

 『レスラー』を見た。チケット売り場につくまで、見るか見ないか悩んだ。見たくない気持ちはあったんだけど、見なければならない気もした。結局、日曜最終回は安くなるし、と言い訳をして見る事にした。一体、俺は何に対して言い訳をしたのだろう。
 たぶん俺はこの先一生、この映画を冷静に見る事なんかできないだろう。頭にはあらゆる事が浮かんでは消え、まとめる事なんかできない。涙しか出ない。
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 俺は「三沢光晴がいない」意味がわからなかった。理解できていなかった。Nakamyuraさんが書いた「三沢光晴が亡くなってしまったこと」を読み、『レスラー』を見て、ようやくストンと心に落ちるものがあった。ただ、それがなんなのかは、やっぱりわからないままなのだ。
 三沢はバックドロップを受けた瞬間、どう思っただろう。「受け身、失敗しちゃった」かな。「溜まっていたからなぁ」かな。なんにせよ、たぶん「やばいかも」と悟っただろう。
 だけど、後悔は絶対にしていないと思う。
 三沢は、全てのレスラーは、その先に待っているのが「死」でも前に進む存在だから。なぜなら、栄光とか、敗北とか、幸せとか、絶望とか、そんなちゃっちなもんじゃなく、彼らが「レスラー」という特殊な、稀有な、美しい存在だから。
 一方、ファンは過激なものをドンドン求めてしまう。ファンの声援が、レスラーを次の段階へ行かせてしまう。俺達は笑いながら不幸を見ているのだ。三沢を殺したのは俺達かもしれない。むろん、それを選んだのは三沢自身だから、ファンの責任なんてないのかもしれない。
 しかし、だからなんだというんだ。俺達は三沢が大好きで尊敬し、いつだって「スパルタンXのテーマ」が流れれば「ミ・サ・ワ」コールをしていた。その三沢は、プロレスを、プロレスファンを心から愛し、プロレスに生きて、プロレスに死んだんだ。
 この先いろいろな事を考えないといけない。プロレスの未来を考え、これ以上の不幸な事故を起こさないためにどうするのか、現実をしっかり見なければ。
 みんなで考えよう。
 でも、今だけは泣かしてくれ。
 プロレスファン以外でも三沢の死はショックかもしれない。だけど、自分の思想が、土台が、心がプロレスでできている俺には、きつすぎる。
 死んだのは三沢なんだ。
 小学校2年だか3年の時に、塾の先生から一本のビデオを借りた。そこには古今東西のプロレスの試合が録画されていた。その中の一つにタイガーマスクの試合があった。タッグマッチだ。中盤、突然タイガーマスクが自らの手で紐をほどき、マスクを脱いで観客に投げ入れた。俺は意味もわからず、興奮した。あれから今まで、あんなに興奮した事はない。あんなに高揚した事はない。あんなに美しい瞬間を見た事はない。
 その男の名が三沢光晴だと知ったのはすぐ後だ。
 正直、もうプロレスは見られない気がする。辛すぎる。
 だけど、見る。見続ける。どんなに涙が流れても、俺は見る。なぜなら、俺はプロレスファンだから。俺は三沢ファンだから。
 俺は見るよ、プロレスを。
 俺にはそれしかできない。
 ちくしょう。本当に残念だ。残念で、悔しい。涙しか出ない。
 三沢、ミサワ、ミサワーーー!!!!