不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

あん時の猪木 完全版

 単行本に大幅加筆され文庫となった柳澤健『完本 1976年のアントニオ猪木を読んだ。*1再読になるわけだが、やはり圧倒的におもしろく、あっという間に読み終えてしまった。情緒的な感情を排し、事実や証言を書く事で猪木を浮き彫りにさせている(その証言の虚実はあるものの)。だからこそ、血が通っていない冷たい本、とも言えるわけだが。
 増補されたのは、韓国プロレスの歴史とパキスタンのグレート・ガマについて。どちらも興味深いのだが、特に韓国プロレスと大木金太郎がおもしろい。壮絶な権力闘争に政治まで絡んでくる。日本でも児玉誉士夫大野伴睦が絡んできている事を見ると、こと昭和のプロレスは国単位のでかい物語だったんだとわかった。
 単行本時には実現しなかったアントニオ猪木インタビュー。IGFが出来た時に『Number』で実現したものを再掲載しているが、本編の勢いのままに読むと、さらに味わい深いものになった。猪木の「ムフフ」という笑い声こそないものの、顔や言葉、喋りが思い浮かんで、ぞくぞくする。特に、猪木自ら自分と馬場の違いを言っていたのがおもしろい。
 金も名誉も栄光も、全てを持っていたが故にプロレスをビジネスとして成功させたジャイアント馬場
 何も持っていないからこそ、ビジネスを超えた、超えざるを得ないファンタジーを作り上げたアントニオ猪木
 この差異の、最大にして決定的なものが、リアルファイトへの思いだったのだ。
 期せずして力道山から始まった日本テレビのプロレス中継が終わる。この本を読んでみると、プロレスが終わりつつあるんだな、と実感してしまった。著者の冷徹な視線がしみる。アントニオ猪木への愛情はあるが、プロレスへの愛情は、もうないのだろう。
 あとがきで著者は《日本の格闘技がどこに行くかはわからないが、プロレスと無関係になることだけは間違いない》と書いていた。たぶん、そうなると思う。
 だが、それに反するように昨年大晦日の格闘技イベントのメインは田村潔司vs桜庭和志だった。俺はこの試合について《違和感を覚える事しかできなかった》と書いた。*2本書を読んでからあの試合を振り返ると、「田村vs桜庭は、Uという幻想の残骸なんだ」と思ってしまった。Uの残骸であり、プロレスの残骸だ。そして、それらはプロレス界の巨人・ジャイアント馬場とはなんら関係がなく、アントニオ猪木というレスラーが生み出した幻想の残骸なのだ。
 ここで重要なのは、本来、幻想というものは消えれば跡形もなくなるはずなのに、残骸が残り、いまだ大きな爪あとを残している事である。そして、そこが、アントニオ猪木の凄まじさなのかもしれない。
 こんなふうに思ってしまっているにも関わらず、いまだにプロレスを信じている自分もいる。「プロレスは最強なんだ」、高田がヒクソンに負けたのも「よりによって一番弱い奴が出て行った」(byアントニオ猪木)からだと、本気で思っている自分がいる。
 プロレスを信じる。絶望を覚える。リアルとフェイク、表と裏。それら混濁したもの全てを飲み込んでしまうのがプロレスなのである。本書を含めた、全ての物語を飲み込んでいるのだ。複雑極まりない、なんて厄介な代物だろう。プロレスファンは、もはや病気である。我々は、面倒っちい、どうしようもなく鬱陶しい、馬場の現実と猪木の虚構に毒された病人なのだ。
 甘美で幸福に満ちた病人達である。この病気と死ぬまで付き合うしかないだろう。やれやれ。
 賛否はあるし、検証、論証しなければならないが、本書が重要な書物である事は間違いない。この一冊から、様々な事を思いつくし、いろいろな人と語り合ってみたい。そういう気にさせる本である。なにより、普通の読み物としても抜群におもしろい。「完本」として文庫化されたのを機に、一読してみていただきたい。

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)