不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

『ジョーカー』の感想補足

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 最初の殺人シーン、見ている時に何となく数えていて、だからあれ?と思ったのだが確信が持てなくて、今日ネットで同じ事を呟いている人を見かけてやっぱりそうだよねと思ったのは、アーサーが手にしたのはリボルバーで、という事は弾は六発しか入っていないはずなのだが、あのシーンでは確かに六発以上打っていた、数え間違いでなければ八発。こういった細かな(しかし大胆な)ミスというのは、大作でも小作でも往々にしてある事ではあるが、だがしかし、何せ『ジョーカー』なのだから、つまり、やっぱり、そういう映画なのかと思ってしまうのだった。

 ついでに、パトカーから外を眺めるシーンでは、質も方向も違うけれど、ついこの瞬間を思い出してしまった。この時何かを持ってかれた気がした、今作でも。

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書き直し

 ネットである記事を読んで、それについて何か書こうとああだこうだ取り組んでいたのだが、取り止めがなくなったのでやめてしまった。ズバッと断言する方がらくだしウケるものだが、そうもいかない話の方が多い。何がキッカケだったか、いま家にある金井美恵子の本を読みあさっていて、まず『目白雑録』を全巻再読しているのだが、この文章と思考のうねり、あるいはグルーヴ、あるいは深遠さはすごいものだなと今回も感心している、おもしろいし。ああいう風にとは言わないが、思考の速度を落として考えたいものである。この連載エッセイは終わってしまったのだがどこかの雑誌が再開してくれないものか、いま書いてほしいネタがたくさんある。「いまナンシー関がいたら」と書く人は多いが、たぶんナンシー関は「いつまでも私に執着しないで」と言いそう、でも金井美恵子はまだ生きているのだからやっぱり時事ネタを書いて欲しいなと思う。この一連の文章、書こうと思ってやめたのとiOSアップデートのせいか操作ミスが何回もあって、何度か頭から書き直した。そのたびに文章や内容が少しずつ変化していて、最初は金井美恵子なんて出てこなかった、書き直しは面倒だがその過程がちょっとおもしろかった。

ジョーカー/見えているものは見たいもの

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 「政治的な事に関心はない」とアーサーは言った、嘘ではない、本当だろう、確かに彼は政治のあれこれによって追い込まれていた、だが社会や政治に対して恨み節を言った事はなかった。彼はどこまでも自分の事にしか興味がなかった、それが教養があるかないか、いいかどうかは別にして。アーサーはみんなを笑わせて喜ばせたかった、だがそのみんなとは誰なのだろう、彼はみんなが見えていたのか。

 笑わせたかったけど笑われた、笑いたくなかったけど笑ってしまった、喜ばせたかったけど喜んでくれなかった、愛されたかったけど愛されなかった、愛したかったけど愛せなかった、殺してほしかったけど殺してしまった(アーサーはボコボコにされる時は無抵抗だった)、あの場で自殺するつもりだったけどできずにあいつを殺してしまった、言いたくなかったけど言うしかなかった、「カーニバル」(彼のピエロ名)と呼ばれたかったけど「ジョーカー」と呼ばれた、撃つしかなかった、最初から最後まで自分が求めていたものは手に入らなかった。

 書きながらふと思ったのだが、もしかしてアーサーは「ジョーカー」にもなれなかったのではないか。彼はあの場で立ち上がって喝采を浴びたものの、直後に逮捕され、刑務所(精神病院?)に入って、まぁああいう描写はあったものの、それで彼のあれこれは終わりだったのでは。あのカオスの中で生まれたものは「ジョーカー」その人ではなく、「ジョーカーの種」でしかなかったのだ。考えてみれば、仮にこの映画をジョーカーそしてバットマンの前日譚とするとブルース・ウェインとの年齢差があまりにあって、ブルースがバットマンとして覚醒した時にはジョーカー=アーサーはもう老年、とても対峙する事はできないだろう。そうなると、あの混乱の中で「ジョーカー的なる者」=アーサーを見て熱狂した群衆の中から、アーサーの思想(などと言うほどのものなのかはわからないけど)を受け継いだ本当の「ジョーカー」が生まれる、と考えた方が筋が通る気がする。いくら振り切れたからといって、やさしいけど何もできなかったアーサーに「ジョーカー」的な振る舞いができるとはとても思えない、バットマンに執着しそうにない。そういう意味で本作は確かにバットマンの「ジョーカー」の誕生物語と言えるのかもしれない。

 ではアーサーは何だったのだ。「ジョーカー」にも結局なれなかった男、という事になってしまうではないか。人生は近くで見れば悲劇だが遠くから見れば喜劇だと言ったのはチャールズ・チャップリンだが、どこから見ても悲劇だ。何で私はこんな悲しい話を見なきゃいけないのだろう、この映画を見て社会がどうの、触発されてどうのというのは、「誰も俺を見ていない」というアーサーの嘆きを見ていない。アーサーが冒頭、唯一見せた青い涙を思い出して胸を打つ。

 だけど、とさらに思う。自分が存在している事は間違いだったかもしれないと思っていたけど、どうやら世界の方が間違っているらしいと気づいた男が語る話は真実なのか? カメラはアーサーがいる場所や見るものしか映さない。ある事だけは妄想だと映し出すけど、他の全てが現実だとわかる者はいない。人は見たいものだけを見る、あなたが見た『ジョーカー』はあなたが見たかったものだ、というのは安直すぎる結論か、そうすると私が見たかったのは悲劇だったのだろうか。?が浮かんでは消えていく、とても「ジョーカー」的な映画だった、良くも悪くも。*1

*1:追記:書いてから検索したら、俺はぼんやりした感想だったが、同じ意味の事をもっとビシッと書いている方がいました。 感想『ジョーカー』 実はあの場でジョーカーは生まれていなかったとしたら - ジゴワットレポート

休日派ダークナイト日記

 今日は涼しい、このまま気温が下がっていくかというとそうではなくてまた上がるそうで、寒暖差にもう疲れた、台風も来ているとか。早くキリッとした寒い日になってほしい、コートを羽織りたい。今日は長袖Tシャツ、曇天模様に真っ赤なロングTシャツ、それを着て食べに行くのは沖縄そば、久し振り。喫茶店ロイヤルミルクティーを飲んで、古本屋本屋スーパーコンビニに寄りながら帰宅。

 一時間ほど転寝してから、Netflixで『ダークナイト』を、夕飯(豚チリ)を挟んで、少し飛ばしながら見る。もちろん昨夜『ジョーカー』を見たからで、感想を書き始めたがうまくいかず、かといって何だか喧しいネットの感想を見廻るのも何なので、違うジョーカーを見直してみようと選んだ。あまり同じ作品を映画館に見に行く事はしないのだが、どうしてももう一回見たいと行ったのは『ダークナイト』と『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』くらいである、『地獄の黙示録 特別完全版』も二度行ったけどあれは長すぎて途中で寝たから。

 公開当時は傑作だ完璧だと騒いで、DVDで見直した時は失敗したところ退屈なところもあるなと冷静になり、今回久方振りに見ると、うん、よくできている、すばらしいと思った。本作以前と以後で明らかに映画の悪役の概念ないしは作品における善悪問答が変わったはずだ。十年以上経った現在もそうなのかという問いかけへ『ジョーカー』が答えた、わけでは全然ない。善悪や社会・政治の物語ではあるけれど、ジョーカーというのはどこまでも個だと思う。作品や解釈が違っていたとしてもジョーカーという存在が世界において異端で、フリークである事に変わりはない。個ではあるけれど、個のままではチンケな存在であり、だからヒース・ジョーカーは”you complete me”とバットマンに言ったけれど、ホアキン・ジョーカーがバットマンと対峙したらどうなるのか、というところはとても気になる。

 日中暑くても朝夕は涼しい、夜の散歩ができる季節になってきた、軽く歩く。帰ってから入浴、日記書き、読書、寝る。来週中盤くらいからまた忙しくなりそう。

休日派ピエロ日記

 公園では蝉が鳴き、喫茶店では扇風機が回り、俺が注文したのは冷たいお茶と十月とは思えない暑さである。暖冬になるのかと思っていると一気に寒くなったりするのだから困る、季節の繋ぎが本当に雑になった、丁寧な運営を求める。

 待望の『ジョーカー』を見に行く、予告で期待値が上がるものの事前の評判がよすぎるので逆に下がって、いい塩梅での鑑賞となったわけだが、ホアキン・フェニックス圧巻、カメラ撮影最高、されどシナリオが退屈で総じて映画としてはまあまあ、と見終わった後は思っていたのだが、何やら強い異物感を覚えたままで、これは一体何なのかとずっと考えている。ピエロが嫌いで俺の感想を聞いてから見るかどうか判断したいと言っていたカミさんに、前述の感想と共に「ピエロ分、少なくとも70%だった」と教えると「多い……見たいけど見たくない……厳しい……見たいけど」と頭を抱えていた。しばらく公開しているだろうから大いに悩んでくれ。

そういう付き合い

 久し振りに悪友会であった、調べてみたらおそらく今年一月の新年会以来で、その時に「なんとなく今年は悪友会が増えそう」と書いたのだが、増えるどころか減っている、減っていてもあまり気にせず、久し振りでも久し振りな気もせず、「おっす」「おす」の挨拶から駄弁って駄弁って、時間が来たらおしまい、また次回とあっさり、次回はいつだ、また九ヶ月開く事はないだろう、たぶん忘年会。

「ま」

 iPadiOSをアップデートした、いろいろ変わっていてまだ慣らし運転中なのだが一番変わったと感じたのは日本語ローマ字入力の際にスペースキーを押すとちゃんと全角開きになるところである、「 」。これまではスペースキーを押せば半角開き、なのだろうかあれは、「 」、半角でもない中途半端な開き加減のように感じられるが、とにかく全角ではなかった。どうしていたかというと、以前PCで打った全角開きをコピーして登録した、「間を開ける」という意味から「ま」と打つと「 」になるようにしておいたのだ。iPadで日記を書く時は、最近はiPadで書く事の方が多い、ほぼ毎回冒頭に「ま」と打つところから始まっていた、それが変わってしまった、スペースキー一個で済んでしまう。便利である、簡単である、だけどちょっと物足りないのである、今日もやっぱり最初に「ま」と書いてしまった。